連休の5月3日に、池袋の映画館で「アーティスト」を見た。サイレントの白黒映画である。この作品はお薦めである。ご存知の方もいらっしゃると思うが、第84回アカデミー賞で、5部門で最優秀賞を受賞した作品である。作品賞、主演男優賞、監督賞、衣装デザイン賞、作曲賞の5冠である。
当日は、予備知識がまったくなしで、映画館に入った。事前にチェックできていたのは、この作品が、無声(サイレント)であること、白黒映画であることだけだった。もちろん、今年度のアカデミー賞を総ざらいしたことは知っていたが、わたし自身はそもそも映画通ではない。
あらすじ(後述)も知らず、主演男優(ジャン・デュジャルダン)がフランス人であることも確認しないままに、映画鑑賞は始まった。主演女優(ベレニス・ベジョ)が、監督(ミシェル・アザナヴィシウス)の妻でもあることは、映画館を出てから後日にネットで調べて知ったことだった。
1時間前に到着したので、シートの位置(G1)だけは最適なポジションを確保できた。スクリーンの手前で左の中ほど。近眼のわたしにとって、一番見やすい席である。
初めは、無声であることに、なかなか「耳」が慣れない。これは、かなり不思議な感覚である。
字幕が部分部分で入るので、話の筋はだいたいわかる。たぶん英米人ならば、唇の動きで「英会話」を読めるのだろうが、いかんせん、わたしは英語能力があまり高くない日本人である。音楽が鳴っているだけで、会話がフォローできない。
どうにか気持ちがつながるのは、ストーリーが単純なラブロマンスだからだろう。そして、準主役のわんちゃん(犬)の演技がすばらしいからだ。だんだんと、サイレントで白黒の世界に引き込まれていく。
考えてみれば、サイレントでは話を複雑にできない。だから、おのずと米国人好みのアクション物か、コミカルなラブロマンスになる。アカデミー賞を狙って作ったのは、「(投票者である)アメリカの映画人」をターゲットにしたマーケティング戦略で説明できるのだそうだ。たぶんそうなのだろう。
フランス映画で、監督のミシェル・アザナヴィシウスは、映画界ではほぼ無名。これが3作目である。しかも、ユダヤ系フランス人と来ている。でも、だからこそ、アカデミー賞が受賞できたのかもしれない。ちなみに、フランス映画のアカデミー最優秀作品賞は、初受賞である。
映画そのものは、映画館でご覧いただくとして(くどいようだが、絶対にお薦めです)、白黒でサイレントのラブコメディーが、なぜいま、おもしろいのか考えてみた。
第一に、複雑な世の中だからこそ、単純な筋とシンプルな画面のつくりが受けるのではないのか。ありそうでなさそうなラブコメディーに、なんとなくひとびとは安心する。カラー画面の3Dなどは年寄りには複雑すぎる。
第二に、この映画のメインターゲットである高年齢層(団塊世代やわたしのような70年代に学園にいた世代)には、懐かしさで迫ることができる。ジュニア世代には、白黒映画は新鮮に映るのではないのか。
第3に、高年齢(団塊)世代とそのジュニア世代が、マス(市場の量)とお金を握っている。市場を制しているのは、スマホ世代ではない。先進国では、とくにそうなのではないのか。
今後、映画の世界も、シンプルでわかりやすい作品が席巻しそうに思うのだが、どうだろうか。小説なども、もっと単純で安心感のある作品が増えてきそうである。
<参考:あらすじ>(あるブログ記事より)
舞台は1927年、サイレント映画全盛のアメリカ・ハリウッド。スターであるジョージ・ヴァレンティン(ジャン・デュジャルダン)は、新人女優ペピー・ミラー(ベレニス・ベジョ)と知り合う。楽屋を訪ねてきたペピーに、ジョージは「女優を目指すのなら、目立つ特徴を」と、アイライナーで唇の上にキュートな“ほくろ”を描く。その日を境に運命が変わったかの如くに、ペピーの快進撃が始まる。踊り子、メイド、名前のある役、そして遂にヒロインとスターへと上昇していく。
しかし、それとは逆に螺旋階段を下るようにヴァレンタインの人気は落ちていく(その象徴的なシーンもある)。1929年にセリフのあるトーキー映画が登場すると、過去の栄光に固執し、「サイレント映画こそ芸術」と主張するジョージは、映画会社の社長と決別。さらに、リスクを取って、自ら初監督と主演を務めたサイレント映画は興行的に大失敗してしまう。
さらにジョージは心を閉ざし、オークションで思い出の品々を売り払う。酒に溺れて絶望のあまり、なんと唯一の財産であるフィルムに放火。間一髪、ジョージは愛犬の活躍で救出され、そこに変わらぬ愛を抱くペピーが彼を支援するために現れる――と泣かせるメロドラマ仕立てである。