【新刊紹介】 野﨑哲夫(2012)『進化する東京駅: 街づくりから駅ナカ開発まで』成山堂書店(★★★★)

 その昔、著者の野﨑さんに、日本ショッピングセンター協会で「GRANSTA」(東京駅のエキナカモール)の開発について話していただいたことがある。4年が経過して、野﨑社長((株)鉄道会館)たちが2005年に構想した「東京ステーションシティ構想」がほぼ完成をみることになった。


 
 その象徴的な出来事が、大正時代の建物そのままに再建された「3階建ての旧東京駅舎」の復元工事の完成である。東京スカイツリーの陰に隠れてはいるが、鉄道好きの間では、今やちょっとした「東京駅ブーム」である。

 本書は、日本の中央駅である東京駅を、交通の要所としてだけでなく、「人々が集う街」として位置づけようとした「東京ステーションシティ構想」をまとめた書籍である。最近10年間の東京駅再開発の経緯を、大正時代以降に駅周辺が待ちとして発展していく様子を記述した物語である。
 成山堂書店は、交通関係ではよく知られた老舗書店である。地味な専門出版社なので、あまり本の宣伝を見かけることはない。それが、「2か月で増刷になりましたよ」と、著者の野﨑さんから先日電話で伺った。
 「日経新聞」に先日、本書の広告が掲載されていた。本屋でもよく売れている証拠だろう。専門的な書籍なのだが、もっと一般にも読まれてしかるべき本だと思う。それでは、内容を紹介してみる。

 もし読者が「鉄っちゃん」か「鉄子さん」ならば、まずは第3章「東京駅:日本の鉄道中央駅としての誕生と進化」から読むことをお奨めしたい。
 鉄道発祥の駅である新橋駅などと比べて、東京駅は大正時代にできた比較的新しい駅であることを知って、まずは驚くにちがいない。わたしも気持ちに少しだけ「鉄」が入っているので、昭和元年の東京駅周辺の鉄道網(図3-3)を見るだけで顔が紅潮してくる。
 つづいて、パリ周辺(図3-6)やベルリン駅(3-10)との機能的なちがいがわかる駅の配置図をみると、東京駅が後に世界有数の乗降客数を誇る旅客ターミナル駅に発展する理由が納得できる。東京駅を通過型に設計したからである。
 この章を読み終ると、大正時代の鉄道官僚や技術者たちが、素晴らしい構想力を持っていたに感嘆する。近代日本がほとんど形をなしてもいない時代に、東京をアジアの中心都市にすることを狙って、東京駅を構想したことがわかるからである。

 野﨑さんらが、2005年に「東京ステーションシティ構想」を提案するのだが、この発想は、東京(駅)が持つ特殊な鉄道ネットワーク資産を受け継いでいる。わたしの年代の人間ならばみな知っているように、昭和の後期まで、東京駅は日本の中央駅のひとつにすぎなかった。
 上越線と東北線は、上野駅を起点にしていたし、中央本線の終点は新宿駅だった。時代をもうすこし遡れば、総武線の起点は両国駅だったのである。昭和の初期まで、日本の首都東京は、唯一の中央駅を持つ街だったわけではない。
 ところが、いまや東北本線も中央線や総武線も、東京駅に乗り入れている。東京駅は、通過型の駅でありながら、大動脈のハブの位置にある。30年をかけて、東京中央駅構想が実現したのである。
 文字通りに、日本の鉄道交通のハブになった東京駅は、つぎの段階として商業施設を含んだ街に発展しはじめている。その下地が、大正時代に作られていたことがわかる。

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 わたしは、偶然にも縁あって、2003年に「エキュート大宮(初代エキナカ)」で、2007年には「グランスタ(東京駅エキナカ)で店舗をリサーチする機会に恵まれた。当初の興味は、人の流れの速い駅改札の内側で、消費者がどのように買い物をするのかを知ることだった。
 10年後、駅ナカ店舗での購買者は、「トリッパー」と呼ばれるようになった(JR東日本企画編(2012)『移動者マーケティング』)。駅ソトを含んだ移動動線上でのショッピングについては、移動者ニーズや購買の法則がしだいに明らかになってきている。
 日本人の約3分の一は、毎日何らかの形で、大量輸送手段(マストラ)である電車やバスのお世話になっている。日本で最大の移動者が通過する東京駅が、商業サービス施設に変身することは、10年間の実験から明らかになった。
 鎌田由美子さんが指揮した「エキュート」や、著者の野﨑さんがリードした「グランスタ」は、JR東日本が新たなリテール事業を構築するための実験だったことがわかる。テストの成果は、5章以降に書いてある。

 第5章「エキナカ「グランスタ」の店舗開発戦略(MD論)」は、商品面からエキナカ商業施設の役割を論じたものである。東京駅の特殊性が、新しい店舗・商品の可能性を示唆している。グランスタにしか入店していない店や、エキュートで新しくはじまったサービスが紹介されている。
 それに対して、第4章では、「東京ステーションシティ(TSC)構想」について述べられている。丸の内や日本橋の中心駅として、東京駅が完成したのは大正時代である。そのときに、東京駅を中心とした街構想はすでにあったのだが、戦争をはさんで計画はとん挫していた。
 50年の時を経て、丸の内から八重洲、日本橋を一体的につなぐ、駅を中心にした街づくり(東京ステーションシティ)が完了する。辰野金吾が設計した旧駅舎が復元されてから、東京駅の外観を皇居側から見る人が増えている。わたしもそのひとりである。
 新丸ビルの前のワインバーのテラスから、ライトアップされている3階建ての駅舎を見ていると、日本人としての誇りを感じる。そして、その先には、2014年完成予定のグランルーフの完成が待っている。その瞬間に立ち会いたいと思う。

 ここまでで書き忘れてしまったが、第2章では、「エキソト」(大丸有地区、八重洲・日本橋地区)の発展について扱っている。エキナカ施設の開発が、東京駅の外に広がる大規模開発(両地区)と一体的なされていることを説明した章である。
 わたし自身ほとんど意識することがなかったが、丸ビルや新丸ビル、東京中央郵便局のビル再開発と、旧丸の内駅舎の復元工事は、ほぼ同時に進行してきた。バブルがはじけたあとでの出来事である。
 東京駅の周辺では、静かに再開発が進んでいたことに気付いたのは、10月3日に、東京駅の丸の内新駅舎を見学に行った時だった。この風景を見渡せば、新しく立ち上がった巨大ビルが多数、林立していた。唯一、低層の建物だったのが、新装なった丸の内側の駅舎だった。

 皇居側から晴海方面に風を通すため、駅舎を低層にできたのは、「容積率の付け替え」という裏ワザだった。新大丸ビル(鉄道会館所有)や八重洲側のタワービル群などの高層ビルに、低層で効率が悪い旧東京駅の容積率を割り振ったのである。
 行政側(東京都)が法律を再解釈することで、景観の保持と経済効率がうまく妥協できたことになる。もし容積率の付け替えという発想がなければ、現在の東京駅周辺は、高層ビルだらけになっていたはずである。
 新しい東京駅のモニュメントとしての旧駅舎は、そのままでは保存できていなかっただろう。