今年も猛暑の夏でした。日本人にとって、8月は重苦しい気持ちになります。戦争を知らない世代のわたしたちにも、終戦の年(昭和20年)は記憶として残っています。子供の頃に、父や伯父たちから戦争の話を聞かされてきたからです。今回のコラムでは、そのときの話を書くことにしました。題して、「親父たちの戦中・戦後」。父の小川久(ひさし)と伯父の珍田武蔵(たけぞう)の戦中と戦後の話です。
「親父たちの戦中・戦後」『北羽新報』(2025年8月26日)
文・小川孔輔(法政大学名誉教授、作家)
今年は、戦後80年。広島(8月6日)と長崎(9日)に原爆が投下された日の前後から、戦争にまつわる新聞記事やドキュメンタリー番組の放送が多かったように思います。終戦直前の東京大空襲(3月10日)で、東京下町では約10万人の人命が失われました。全国約200都市を襲った米軍の空爆では、約56万人が亡くなったと言われています。
わたしたちの世代(70歳代)は、肉親が戦争を体験しています。父親の小川久(ひさし)は、終戦間際に弘前の連隊から輸送船で八丈島に移送されました。駅伝選手で記憶力が良かった父親は、通信兵として優秀だったらしく、そのために運命が大きく変わったようです。
「行先が八丈島ではなく、硫黄島だったとしたら」と父はよく話していました。その可能性もあったようです。硫黄島で日本軍は玉砕しています。もし父が硫黄島行きの船に乗っていれば、わたしとわが家族はこの世に存在していないことになります。
八丈島に駐屯していた通信兵は、仲間と海岸まで魚を獲りに行って、グラマン戦闘機に機銃掃射を浴びていたようです。沖縄戦など日本軍の状況を大本営と直に交信していたので、「いずれ日本は戦争に負ける。本土決戦にでもなれば、次は八丈島だったろうね」と覚悟を決めていたようです。運が良かった父は、かろうじて生き延びてきたひとりでした。
もう一人は、母・ワカの兄の珍田武蔵(ちんだ たけぞう)です。わたしは、4歳から6歳まで旧山本村(昭和37年に町政施行で山本町、現三種町)の母の実家に預けられていました。珍田家は地主の家系で、わたしは伯父にとても可愛がってもらいました。東京で薬学の専門学校を出た伯父は、頭脳明晰でした。農作業は他の家人に任せて、自分は山本郡山本町(現、三種町)で収入役をしていました。
伯父は甥っ子のわたしに、しばしば戦争の生々しい体験を話してくれました。武蔵伯父は、満州(現在の中国東北部)では衛生兵でした。囲炉裏を囲んで伯父がする戦争の話には、負傷した兵隊たちの足や腕を切断した話とか、夜営のテントに砲弾が落ちてきて隣に寝ていた兵隊が吹き飛ばされた話とかが出てきました。凄惨な話を、伯父は静かな語り口で淡々と話していきます。
伯父には兄と弟がいました。ふたりとも出征後すぐに、南方の戦場で亡くなります。次男の伯父だけが満州から生きて戻ってきました。農家ですから、誰かが後を継がないといけません。亡くなった兄の嫁と結婚して、伯父は家を守ることにします。困難な人生を歩んでいたはずなのですが、伯父が自分の運命を嘆いている様子を見たことがありません。
伯父は人望がありました。周囲からは町長に推されていたようですが、「戦争で一度終わった人生だから」と断り続けていました。昭和32年から8年間は山本村、山本町の収入役を務めました。役場勤務時代、退職後と工場誘致やジュンサイの栽培など、町の産業振興に力を注ぎました。
地域貢献で実績を残しまた伯父ですが、わたしには淡々と、「残った時間を生きている」と話していました。凄惨な戦場の景色を、伯父は生涯忘れることができなかったのでしょう。本人はお寺の総代になり、生前に戒名をもらい、静かにこの世から去っていきました。いまでも甥っ子のわたしが、親戚の中で武蔵伯父と一番似ていると言われます。
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