【新刊紹介】山口周(2023)『武器になる哲学:人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50』KADOKAWA(★★★★)

元コンサルタントが書いた哲学書である。本書は、実は哲学の入門書でもガイドブックでもない。ターゲットは、意識高い系の企業人である。わたしは学生時代に哲学書を読まなかったが、哲学がなんとなく仕事に役立ちそうだと思っていた。わたしのように好奇心から、分厚い文庫本を買い込んだ誰かが読者である。単行本でも10万部売れたらしい。

 

 本書は、プロローグに続く20ページほどの短い第1部「哲学ほど有用な『道具』はない」と、4つの章からなる第2部「知的戦闘力を最大化する50のキーコンセプト」から構成されている。売りは第2部である。約50人の哲学者(科学者)の論説を、「人」(第1章)、「組織」(第2章)、「社会」(第3章)、「思想」(第4章)の4つの切り口から解説している。

 プロローグで説明されているように、通常の哲学書との違いは、年代順に歴史上の哲学者を並べていない点である(類書との違い①)。筆者が主張するように、ほとんどの初学者は、2000年以上前に活躍したギリシャの哲人たち(アリストテレス、プラトン、ソクラテスなど)の解説で挫折してしまう。

 本書の場合は、それでもビジネスパーソンがターゲットだから、仕事に役立つようなヒントが全体に散りばめられている(類書との違い②)。部厚いわりに読み飽きない理由である。知的な好奇心を持った読者には、固有の哲学思想や科学的なアプローチが生まれる時代背景と、ビジネスのための「武器としてのコンセプト」を理解することが有用だからである。

 わたしは半日がかり(約5時間)で読了した。内容が役に立つ上に、知的にも興味深かったので、企業経営者に本書を強く推薦してみたい。アート系の本の最近の訴求点は、教養として書籍である。しかし、この場合は、推奨の理由は、思考の武器として哲学のコンセプトを知ることが有用だと思うからだ。

 

 第2部の「哲学・思考の50のキーコンセプト」のうち、わたしが詳しく知らなかった哲学者(思想家、科学者)が10人ほどいた(*知っているのは名前だけで、、)。自分にとっては新しい知識体系なので、以下に在庫目録として残しておくことにする。もうちょっと少ないと思っていたが、教養課程で「哲学」をとらなかったのが原因だろう。経済学と西洋史は単位を取得したが、哲学だけはとっつきが悪かった。

 第1章 07:報酬(バラス・スキナー)、

     09:悪の陳腐さ(ハンナ・アーンレント)

 第2章 20:他社の顔(エマニュエル・レヴィナス)、

     21:マタイ効果(ロバート・キング・マートン)、

     24:反脆弱性(ナシーム・ニコラス・タレブ)

 第3章 33:パラノとスキゾ(ジル・ドゥルーズ)、

     34:格差(セルジュ・モスコヴィッシ)、

     37:公正世界仮説(メルビン・ラーナー)

 第4章 44:エポケー(エドムント・フッサール)

     49:未来予測(アラン・ケイ)

     50:ソマティック・マーカー(アントニオ・ダマシオ)

 

 全体的な感想である。

1 歴史的な順序づけ

 著者は、冒頭で「目次に時間軸を用いていない」と宣言しているが、固有の哲学や思想が出てきた時代背景は、本書の解説からかなり明らかになっている。それゆえ、単純に「人」「組織」「社会」「思想」という4軸で整理せずに、それらをつなぎ合わせると、もっと深くておもしろい哲学の概説書になったのではないだろうか?

 本書の記述が、やや「百科事典的」になってしまっていることが残念である。それは類書でも達成できる目的ではるからだ。縦糸が「時間軸」ではないだけに、ユニークなコンセプトとしての「横糸」が別にあったのではなかろうか?文章が読みやすく、ふつうの哲学書のように回りくどくて思弁的ではなく、有用性を軸に書かれているのでなおさらその感想を強く感じた。

 

2 学生時代の学びの再学習

 大学生のときの知識の再学習に、本書は優れた素材を提供してくれる。具体的に述べると、「社会学」(三田先生)の時間でテキストだった『自由からの逃走』(エーリッヒ・フロム、06)について、当時はわかったつもりだったが、フロムの基本思想は理解できていなかった。本書を通じての再学習で、本当の思想とコンセプトがわかって、それはそれで嬉しかった。

 「格差」(セルジュ・モスコヴィッシ 34)の節では、新鮮な発見があった。差別や格差は、同質性が高い社会でこそ生まれやすいという個人的な経験知と、本書の説明は符合していた。概念としての「パラノとスキゾ」(ジル・ドゥルーズ 33)なども、わたしがマーケティング論を学び始めたころ、大きな社会学の中心テーマだった。本書を読んで、当時の社会背景との関連がよくわかった。懐かしい!淺田彰氏の『逃走論』の解説と本書の中では引用部分があった。

 

3 人間の罪深さと人間心理の奥深さの解明

 本書の枠組みでは、哲学の発展を歴史分析的にとらえているわけではない。しかしそれでも、著者が主張するようなビジネスに役立つ直截的な武器としての有用性とは別の役割が、哲学書にはあるように思う。本書は、その点からは、わたしが感じる「哲学の異なる楽しみ方」を解説することには成功しているように思う。

 現代社会が抱えている課題(例えば、俸給制度や人事制度)や、ビジネス界が課題としている現実(組織編成や会議体の運営ルール)を映し出す鏡として、哲学が有効な理解の道具になるように思う。本書を読むまでは、評者は哲学書にそのような楽しみがあることを知らなかった。そうした役割は、陳腐な表現ではあるが、一般的な「教養」という概念に落ち着く。

 冒頭で述べたように、音楽や芸術(アート)、文学に近い存在として、哲学や歴史が意味を持つのだろう。