封切りから2か月、宮崎駿監督の『風立ちぬ』はいまだ観客動員数でトップを走り続けている。先月末、釧路マラソン(30K)を走る前の夜に、大森のテアトル系の映画館でジブリの新作を見た。映像の美しさに反して、大いなる違和感を感じてスクリーンを後にした。
「72歳の宮崎さんは、いったい何のためにこの作品を制作したのだろう?」
「乗り物好きの最後の作品が、ゼロ戦の開発物語を美しく映像で描くことだったのだろうか?」
羽田から最終のJAL便で釧路空港に飛んで、翌日2時間50分弱をかけて30KMのレースを完走しても、その謎が氷解することはなかった。
おもしろい映画を見たあとはいつも、即座にコメントをブログにアップする。しかし、今回はうまく気持ちを表現できないので、映画評の書きようがなかった。
『風立ちぬ』は、アニメ作品としては、もちろんかなりおもしろかった。それはまちがいないのだが、わたしは正体不明の違和感にひどく戸惑っていた。
一か月後の昨日、その謎がようやく解けることになった。
”風立ちぬ”でキーワード検索をしていたときのことである。「『風立ちぬ』を見て驚いたこと」という映画評を発見した。
ブログの書き手は、横岩良太さんという短編小説家である。感想文は、2013年7月25日にアップされていた。その週末にわたしは釧路湿原マラソンを走っている。ほぼ同じころに映画をみていたことになる。
横岩さんのブログは閲覧件数が多いので、グーグルで上位にランクされていた。別のひとの評価コメントも読んでみたが、その中では最もキレのよい映画評だった。
全文は結構な長さなので、前後を省いて、”謎解きの部分”だけを引用させていただくことにする。本質を突いた鋭い指摘である。
わたしの気持ちの悪さ=違和感が、この解釈で完全に払しょくされた。
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『風立ちぬ』という映画は、さっと表面だけ見ると「不安定な時代を生きた、天才技師である男と病を抱えた女の恋愛物語」ですが、良く見ると「美しさを追い求めることの残酷さ」を描いた映画です。
(中略)
主人公、堀越二郎は一見すごく良い奴みたいに描かれていますが、根っこの部分は人の心が分からない薄情者です。映画の端々で彼の薄情さが描かれます。特に妹が訪ねて来る時にいつも約束を忘れていて、妹を一人ずーっと待たせているところに明々白々な表れ方をしています。何時間もずっと待たせて、一言「ごめん、わすれてしまっていたよ」で済ませるのですが、妹は兄が薄情者であることを承知しているので、それに対して文句を言いません。そんな妹も、後に堀越二郎が結婚したあと、妻の菜穂子が可哀想だと泣いて訴えます。二郎の妻菜穂子に対する態度はそれくらい酷いのですが、二郎自身はそれが酷いとは全く気付いていません。二郎はそういうことが分かる人間ではないからです。
この映画が”恋愛物語”からはみ出るのは、男の方がそういう薄情な男だからで、もっと云えば、二郎は菜穂子を別に愛しているわけではありません。二郎は菜穂子が好きですが、それはほとんど単に菜穂子が「美しい」からです。
二郎は「美しさ」が好きです。それ以外のことにはあまり興味がありません。飛行機が好きなのも、美しいからで、彼が作りたいのは美しい飛行機です。焼き魚を食べてはその骨の曲率が「美しい」と言います。菜穂子に対しても褒め言葉は「きれいだよ」ばかりです。
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そうなのだ。これは、子供向けのアニメ映画ではなかったのだ(R35指定、ドクターコウノ評)。だが、それでいて、関東大震災から敗戦に至るまでの世相の変化を描いている。
30年間の史実(リアルな世界)をアニメーションの映像に収めながら、もうひとつのテーマとしては、あり得ない恋愛劇を扱っている。ゼロ戦の天才設計者(堀越二郎)に、堀辰雄の小説『風立ちぬ』を翻案した物語を重ね合わせるという手法である。
わたしが感じた違和感の根っこにあったものは、ある種の”不自然さ”だった。
二郎と菜穂子の夫婦は、実存などしようもない”作り物”の世界に住んでいるのである。この部分はアニメ映像であってもよいのだが、その一方で、作品自体は第二次世界大戦という戦争をテーマにしている。
その限りでは、全体のストーリーにリアリティがほしくなるのだが、進行していく恋愛劇は、やはり作り物っぽい。いや、アニメ作品だから完全な想像物である。だから、堀越二郎氏が生きていたとしても、自分がこれほど薄情者に描かれることには抗議をしなかったのではないだろうか。
堀越さんは、群馬県藤岡市出身で東大工学部を首席で卒業したエリートエンジニアである。第二次大戦後も三菱でYS-11の設計に加わり、仕事面でも家庭的にも幸せな生涯を終えている。ジブリが描いている男の子の”薄情さ”とは、ほど遠い性格の方だったのではないかと想像する。
横岩さんのブログは、わたしの心にも鋭く突き刺さってきた。
正直に告白すると、『風立ちぬ』の鑑賞後の後味の悪さは、わたし自身の性格や行動や物事に対する感じ方と関係している。映画の中の天才設計者の振る舞いは、わたし自身の薄情さそのものだった。
ゼロ戦の設計者である堀越二郎氏が卒業してから30年後に、わたしも同じ大学のキャンパスで学生生活を始めた。地方出の”エリート大学生”は、薄情者になるに決まっている。芸術や科学の世界は純粋で美しい。そこには魔物が潜んでいる。その世界では、心地よい陶酔感に溺れてしまう。
学力の高さで選ばれた人間が、アートやサイエンスを学びの対象とした途端に、究極の美や技術を追求していくことになる。創造のプロセスでは、周囲の都合など全くおかまいなしである。二郎の菜穂子に対する冷酷さを見てみるがよい。
おそらくは、宮崎監督はアニメ制作にあたって、二郎のような態度でスタッフや関係者に対峙するのだろう。そう思わせるところが、宮崎作品にはたくさん出てくる。
堀越二郎を通して表現させている薄情さの源泉は、社会のピラミッドの頂点に立つ人々の「独断」と「選良意識」(エリーティズム)」から来ているのだろう。たとえそれを駆動する要因が「知的好奇心」や「社会的な善行」であったとしてもだ。
再度、横岩さんのブログを引用してみる。
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「ピラミッドのある世界と、ない世界、どちらがいいか」
という問いに、二郎は、つまり宮崎駿は「ある世界」と答えます。
僕は「ない世界」と答えます。
何の話かというと、ピラミッドのある社会というのは、ピラミッドのような美しいものを、天才的なインスピレーションの具現化を沢山の普通の人々の苦しみが支える社会のことです。
この映画でいえば、二郎みたいな天才が飛行機を作ることを、他の才能のない人は苦しくても支えるべきだ、という話です。菜穂子の苦しみは言うまでもありませんし、二郎が飛行機の勉強や設計、試作に使うお金もそうです。途中、二郎は親友に「飛行機の設計に使うお金で日本中の子供にご飯を食べさせることができる」と言われています。そうは言っても、友達も二郎も「じゃあ、飛行機のお金を貧しい人々に回そう」なんて思いません。
(中略)
エコな左翼人みたいなイメージにまみれていますが、宮崎監督自身、裕福な家庭に育って学習院を出ています。最終的なところでは、宮崎さんのメンタリティはそういうところに立脚しているのだと思います。でも、そういうのはポリティカリー・コレクトではないので、今まで言わなかった。
才能溢れた人が傍若無人に振る舞い美しさを追求すること。他の人々、特に庶民がその犠牲になること。そういうものが、残酷だけど、でも残酷さ故に余計に美しいのだという悪魔の囁き、宮崎駿の本音を、この映画は大声ではないものの、ついに小さな声で押し出したものだと思いました。
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評者の切っ先鋭い弾丸が、宮崎監督の心の底(メンタリティ)を射抜いている。それは、わたし自身に向けられた飛矢でもある。
本当には、人の心がわからない。どこかにいる菜穂子や二郎の妹や、一緒に暮らしている家族や友人たちの声が届かない。
作品を観終わった後に感じた戸惑いの正体は、これだったのだ。