来週(5月15日)、造園家・山田茂雄さんにインタビューをお願いしている。その予習・準備で、ご子息の山田雄太郎さんからいただいた『「園学」のすすめ』を読んでいる。「東京 森のテラス」(@世田谷区仙川)の2階事務所で見つけたご本を、たまたま拝借したものである。
著者の野澤清さんは、山田さんのお師匠筋にあたる方らしい。世田谷の山田造園設計事務所に、野澤先生のご本がきれいに整頓されて積んであった。私的なライブラリーは、山田さんの仕業なのだろう。なので、お会いする前に、事前知識として読んでおこうと思い、野澤先生のご本を手に取ってみた。
この本は、造園(landscaping)に関する哲学書(第1章:造園考)である。それと同時に、技術書(第二章:造園術)であり、日本庭園の歴史書(第3章:造園史)でもある。2006年に野澤先生が亡くなられてから、お弟子さんたち(解説者:進士五十八氏、鈴木誠氏、松本恵樹氏、栗野隆氏ら)が編集した遺稿集の形式をとっている。
本人が書いたものではないが、文章や図などはご本人の直筆である。手書きの図表が、かわいらしいのだ。人間味あふれる地図や分類表である。ただし、後半部分などは、何人かの方が編集作業を分担されたらしく、繰り返しが多くなっている。それが気にならなければ、ランドスケープ・アーキテクチャー(造園学)には素人である、わたしのような一般人にとっても、刺激的な内容になっている。
野澤先生は、造園家でありながら、詩人・俳人でもあったらしい。自らの造園学の思想を伝えるために、松尾芭蕉や松岡子規などの俳句が、文中に多く引用されている。枕草子や古今和歌集のなかに登場する詩歌なども頻出する。融通無碍な文体である。ご本人も、たぶんそのようなパーソナリティの方だったのだろう。
本書では、「庭園」をひとくくりとしていない。「庭(派)」(garden)と「園(派)」(landscape)を区別しているところが、思想的にユニークである。「庭・庭園は、権力者の顕示欲の造形化である」(16ページ)。だから、「庭」は「園(その)」から派生したものではあるが、「園」とは異なっている。
「園派」である野澤流の定義によれば、「園とは、外光の下でアメニティ(心地よい)を感じる場」である(17ページ)。野澤先生は、受注・請負を業とする造園業者(ガーデンデザイナーと施工主)にとって、庭園設計の際の心構えについて警告を発している。
自戒すべきは、「庭がほとんど先例の真似となり、立派さを競う競争となっていること、そして、造園業者が「えらいさん」待ちの仕事になっていることは事実である」、と。基本的に、造園とは、「自然を相手の公的な仕事と心得よ」ということらしい。
園 = 囲われた場所(□) + 人(=袁) だそうだ。人が気持ちよく過ごすことができる、囲われた場所(=園)は、外界の自然とつながっている。いや、園と自然の間には境目があってはいけない。だから、自然の中にある7つの素は、人(ひと)、天(あま)、地(つち)、水(みず)、緑(みどり)、光(ひかり)、風(かぜ)である。
第二章の技術論では、この7つの要素(たとえば、水と石と植物)の配置について解説をしている。すべてが、人を真ん中にして語られている。たとえば、植栽についての章では、人間の目線と樹木の高さが、素通しで見えている風景(空間)のつながりを決定づけていることが示される。
そこで、わたしたちは、これまで意識していなかった重大な事実を知ることになる。造園では、(自然の)経年変化に対応する責任を持たなければならない、のである。つまりは、設計して施工を終えた時点から、植物は成長していく。だから、植栽の自然変化を考慮に入れて、庭(園)はデザインされなければならない。変わりゆく自然を前提に、「管理」するという発想がないと、よい園は造れないのだ。
空間のデザインには、まった無知だったが、本書を読んだ後では、造景の美学について語れそうな気になるから不思議だ。おそらくは、技術書ではなく、趣味の本でもない、哲学書を読んだからなのだろう。
なんとなくだが、この本を読んでいると、催眠術にかけられたような気分になる。そういえば、世田谷の「森のテラス」に座っていた時も、遠くの天空から涼しい風が吹いてきた。夕方の光を浴びて、心地よい樹木の緑。テラスの椅子に腰かけている3人。
そうなのだ。あの雰囲気は、「野澤ワールド」だったのかもしれない。
「森のテラス」と「野澤教授の園学の思想」との関係については、わたしの解釈が正しいのかどうか。来週末に、お弟子さんの山田さんにたずねてみることしよう。