大きなメディア、小さなメディア:  躍進と革新、そして限界

 わたしたちを取り巻く情報環境は、はげしく変わりつつある。それは、小さなメディアの躍進と革新によるものである。大きな変化は、①「クラウド化」と②情報の「個人化」(パーソナライズ)と③「CGM」(消費者発信メディア:Consumer Generated Media)の登場である。3つはすべて関連している。順番に考えていこう。

 わたしは、メール送信に、民間のプロバイダー(NIFTY)のアカウントを利用している。海外にいるときでも、ここからさまざまな情報を引き出すことができる。また、個人HP(JUGEM)には、自分の過去の研究業績や取材記事、コラムなどをテキストベースでアップしている。
 いつでも自分が作ったデータを引き出せるように、「貯蔵している」と言ったほうが正しいだろう。世界中のどこにいても、過去メール(送受信の両方)と個人HP(ブログ)から、自由自在に情報(事実データ)を取り出すことができるのである。
 任意のテーマが与えられたら、短い報告書くらいは即座に編集できる。そんな状況を可能にしているのは、「クラウドコンピューティング」(クラウド化)である。極論すると、自分のオフィスにデータを保持しておく必要などない。同じことは、検索エンジンを使って他人のブログやHPにたどり着くことができれば、それだけでかなりの事実が収集できることになる。
 同僚の平石郁生講師(法政大学専門職大学院)によると、「(他人が開発した)計算アルゴリズムをほぼ自由に利用可能になる時代を迎えていることが、クラウド化の本質である」。わたし流に言えば、「世界中の知恵が、ほとんどフリーで入手できる」のである。しかも、わたしのような「(情報ファイルの整理整頓が苦手な)怠け者」にとっては、クラウド化は、実に福音なのである。

 情報の個人化は、三番目の「CGM」と密接に関連している。わたし自身は「個人情報が丸見えになる」のでやっていないが、例えば、「チェックインシステム」(FOURSQUARE)を使って、仕事で行った先の場所(オフィス)で行われた会議の様子(議事録)や、レストランの(料理の)感想をアップしておけば、それで場所・時間付きの個人日記が完成する。
 副産物として、それらを社会的に集計すれば、レストラン(料理)やフラワーショップ(花束)について、社会的な評価がなされてしまう。それも、レストランや花屋の希望ではなく、一般人が勝手に点数を与えてくれるのである。
 大学の教室でも、かなりむかしから、わたしたち教師が知らないところで、「授業評価」がなされてきた。ただし、教師が授業で出席をとるかどうかとか、評点がやさしいかきびしいか(楽勝科目かどうか)などが、その目的であった。もっとも、セクハラ・パワハラの訴えなどは、こうした「現代目安箱」が抑止力となっているかもしれない。
 勝手連的に「民間評価システム」を設立した当初の動機は、情報検索の容易さと善意からであった。「消費者起情報」という錦の御旗があるだけに、使い方を間違えるとこのシステムは、空恐ろしい結果をもたらしかねない。わたしは、むしろ負の情報の循環を心配している。
 すでに風評被害で、倒産した個人店(レストランや居酒屋)を知っている。知らない間に、プライバシーが丸裸にされてしまった気の毒な人もたくさんいる。もちろん、自分の側にも責任はある。個人情報を出しすぎるからだ。
 わたしたちは、それでなくとも(国家・警察に)監視されている。情報の発信は、本当はいい加減にしておくべきである。わたしなども、こうしてブログを書いているので、プライバシーに関しては丸裸に近い状態である。もしかすると、わたしが犯罪を犯したならば、その証拠調べにこのブログが活用されるかもしれないからだ。

 話はすでに、CGMのことになってしまった。例えば、ツイッターの効果は、いたるところで検証され始めている。集客や主張の普及には、ものすごい効果があることがわかってきている。小さなビジネスにとっては、最強のメディアに育ちつつある。でも、、、近いうちに、「ツイッター効果」は収束するというのが、わたしの予測である。
 その理由は、人間は流行に影響を受けるのも早いが、対象に興味を失ってしまうのも早いからである。たぶんあと一年以内に、ツイッターは、「インベーダーゲーム」や「テトリス」になってしまうだろう。だれも、他人のつぶやきなど、毎日、聞きたいとは思わなくなるだろう。
 そのつぎに、もっとおもしろいメディアの亜種が登場するはずである。ただし、別の形で現れるのである。もっともっと大衆はおもしろいものを望む。メディアへの欲望は際限がない。究極のメディアは、自分の肉体である。便利になった先にあるのは、たぶん人間の肉体を使った行為である。
 すでにその兆しは現れている。スポーツ(マラソン、サイクリング、シュノーケリング)、農業(家庭園芸)、旅と観察(鉄雄くん、鉄子さん現象)。そして、趣味の領域でも、手芸や料理など、わたしたちは、手作りの世界にまだ戻って行くだろう。

 情報への接触は、あくまでも手段としてである。そのように思うのだが、こうした考えが旧いのかどうか、わたしはあまり自信がない。いまや、小さなメディア(パーソナルメディア)も、大きなメディア(マスメディア)も、その先が明確には見えていないからだ。
 ただし、このごろ、わたし自身は、ちょっとした妄想にとりつかれている。「神」はすべてを知っているのかもしれないということだ。わたしたち人間は、神が創造した情報的な産物(ゲームのプレーヤー)ではなかったのかと。