(前回までのあらすじ)
4年ぶりの新店となる7号店(児玉店)と8号店(境店)を開店するにあたり、しまむらの島村恒俊社長は、知り合いの大西勇一氏(タテバヤシ・エアロクラブ社主)が所有しているセスナをチャーターした。上空から新店の立地を調査確認するためである。
昭和50年11月、群馬県館林市、大西飛行場
大西勇一氏(当時、52歳)が操縦するセスナは、東側エプロンから出て、滑走路を西南西の方向に飛び立っていった。前部座席には、パイロットの大西と島村(当時、50歳)が、後部座席には藤原秀次郎(同、35歳)と廣瀬義征(同、33歳)が座った。藤原にとっては、10年ぶりに乗るセスナ172である。離陸してから約4分で、セスナは高度2000フィート(600メートル)に到達した。めざすは、8号店の予定地になっている群馬県境町(現:伊勢崎市境町)のボーリング場跡地である。館林の飛行場からは、直線距離で約18キロの地点である。
藤原は、翼の下に利根川が緩やかに蛇行しているのを見た。調布飛行場で飛んだときは、無我夢中で操舵装置を握り締めていた。落ち着いて地上の風景を眺めるのははじめてだった。後部座席に座ってみると、セスナが「高翼」である(操縦席から見て上に翼の位置がある)理由がわかった。操縦席の下に翼があると、視程のパノラマの邪魔になるからだ。
藤原の隣に座っている廣瀬は、昭文社の地図と眼下に広がる利根川中流の風景を見比べている。離陸前に、4人で簡単に今日の飛行計画をうちあわせていた。各自の地図帳には、赤鉛筆で印が打ってある。ポイントとしてマークしてあるのは、目標の(東武伊勢崎線)境町駅、国道354号線バイパス、(八高線)児玉駅、新店前の児玉小学校などであった。
フライトは約1時間。最初は西に約18キロ飛んで境町の立地場所を確認。その後、西南13キロの地点にある児玉町の出店予定地をチェック。北東方向に約25キロ戻って、館林の飛行場にふたたび帰還するコースが予定として組まれていた。
立地選定に失敗が少ない理由
飛行場から8キロの地点で、パイロットの大西が地上管制官と交信をはじめた。
「We are now over Chiyoda town. (We‘re) going to Sakai town, over. (当機は、千代田町の上空。これから境町に向います、どうぞ)」。
大西が機体を大きく右に旋回させた。後部右座席に座っている藤原には、利根川の河川敷が眼前に迫って見えた。この感覚が好きだった。操縦感覚が頭をよぎった。
水平飛行に移って巡航速度で飛んだのは、ほんの数分だった。南南東の方向から利根川を横切ったセスナは、境町の上空をゆっくりと通過していった。
「廣瀬さん、ボーリング場のピンは確認できたかね?」
前部右座席に座っている恒俊から、廣瀬に声がかかった。店舗開発を担当している廣瀬は、弾んだ声で応えた。
「はい。(店の)前の側道が、国道354号線のバイパスにつながりそうになっています」。
廣瀬は安堵していた。自分が探してきた境店の店舗予定地は、境町の駅前からやや外れた東側にあった。ボーリング場跡地は、幹線道路から離れた北側にあって、現状では道路付きもあまりよいとは言えない。しかし、店前の側道が国道のバイパスにつながると、一気に交通動線が変わるはずである。それが確認できたのである。
「大西さん、もう一度、境の駅を中心に右旋回してください」。
恒俊のリクエストに応じて、パイロットの大西は、右に弧を描くようにセスナを緩やかに旋回させた。太田市の上空まで出てから、今度は、北北東の方角からセスナを境町の中心部に進入させる姿勢を整えた。
鳥の目も虫の目も
グーグルマップが利用可能になったおかげで、今では軽飛行機を使って上空から立地調査をする意味はずいぶんと薄れてきている。グーグルで必要な場所を検索して、大画面、中画面、住宅地図に近い詳細画面を切り替えれば、鳥の目にも虫の目にも自由自在になることができる。
しかしながら、昭和50年代の初めは、一般企業が航空写真を入手することがまだ難しかった時代である。セスナを使った航空測量は、政府機関や大手企業などが、高速道路の建設や大規模な不動産開発などで利用していた。しまむらのような小さな民間会社が、商圏調査に使うことは例外的なケースだっただろう。航空写真が利用できなかった時代に、上空から住宅の密集度や交通動線を見ることに着目した島村恒俊オーナーは、実に先駆的な企業家だったことになる。
日曜日に飛んだのは、土日の買物客が多かったからである。休日の人の動きとクルマの流れを見るためだった。航空写真が整備された今でも、静止画像だけでは、交通動線はわからない。航空法で定められている制限高度1000フィート(300メートル)まで降りると、地上で自転車をこいでいる人の髪型やマフラーの色まで、驚くほどくっきりと見えるものである。
鳥の目も必要である。商圏を確認するために、最初は2000フィート(600メートル)まで高度を上げる。この高さからならば、新しく橋がかかっていたり、道路が途中まで完成しかけている様子が俯瞰できる。島村たちが上空から見ていたのは、現在の地図ではなく、5年後、または10年先の未来の町の姿だった。
千葉(昭和55年)、茨城(昭和60年)など、その後も近県に進出するにあたっては、その都度、島村恒俊はセスナをチャーターしている。しまむらが店舗立地で失敗することが比較少なかったのは、新規の県に出店するにあたって必ず上空確認をまず行い、出店候補地のポイントを事前にチェックすることを基本としていたからである。
小学校がすぐれた指標?
セスナは北からふたたび境町の中心部に接近していった。ボーリング場の跡地は、町の東側にあった。境の町を見下ろしている社長の島村に、廣瀬は報告した。
「物件の東側に、新築住宅が建ちはじめています」。
廣瀬は、島村社長に「これで出店に自信がもてた」と伝えたかったのである。恒俊は大西に指示を出した。
「それでは、児玉町に向ってください」。
セスナの機首は、次の目標である児玉町(現在、埼玉県本庄市児玉町)に向いた。7号店のまん前に、児玉小学校があるはずである。境町からは西南に13キロ。6、7分ほどの飛行距離である。橋梁や幹線道路以外に、上空から見つけやすい構築物は、工場と学校である。校庭が広くとってある田舎の小・中学校は、目視の絶好のターゲットである。
北東から児玉町に接近していくと、小学校の校庭が見えた。地図と照らしあわせると、児玉東小学校らしい。さらに2キロ先に、鉛筆で場所をマークしてある児玉小学校がある。児玉町の人口は、2万1000人。適度に住宅が密集している。
離陸前に、藤原は何を目標に見て飛ぶかを考えていた。島村と廣瀬には、「小学校を探しましょう」と主張していた。藤原は当時から理屈っぽかった。7、8号店は、駅前立地ではない。7割が徒歩客か自転車客である。立地の良し悪しは、基本的に人口の密集度で決まる。自転車で10分、しまむらの商圏は半径2キロである。その中に、5000世帯、2万人が住んでいることが採算の目安である。
市町村別の人口は統計でわかるが、出店情報としてはもっと局地的な情報が必要である。小学校の数が世帯数や商圏人口を推計する最も優れた指標になる。藤原はいち早くそのことに気づいていた。
「島村さん、廣瀬さん、児玉小学校の先と左に、さらに2つ小学校が見えていますね。候補地の周りには、確実に5000世帯が住んでいますよ」。
自信満々の藤原に対して、ふたりは怪訝な表情を見せた。藤原の結論は、出店候補地の周囲2キロ圏内に小学校が3つあることが出店の最低基準だった。小学校(全国で約3万校:昭和50年)に対する世帯数(約5000万世帯)の割合は、1667倍である。3つの小学校があれば、5000世帯が商圏内に住んでいる証拠である。
藤原の説明を聞いて、ふたりは納得した様子だった。4人を乗せたセスナは、児玉町立金屋小学校と秋平小学校の真上を、轟音を鳴らしてかすめて飛んでいった。