第7 回「ヤオコー創業者 トモのこと」『チェーンストアエイジ』2008年12月1日号

平成19年8月 東京帝国ホテル 母トモの人生、最期の送りの日は曇り空になった。川野幸夫(現:ヤオコー会長、65歳)が受験浪人をしていた昭和36年12月に、母は連れ合いの荘輔を病気でなくしていた。その3年前にスーパーに業態転換したばかりのヤオコーを、残された母は女手ひとつで切り盛りしていかなければならなかった。店に立って母はいつも忙しく動き回っていた。


一緒に外出できたのは数えるくらいだったが、ふたりで出かけるときはいつも曇り空だったような気がする。
 夏の終わりの8月31日、月末の金曜日。帝国ホテル2階の孔雀の間。川野トモ名誉会長を偲んでの「川野家・株式会社ヤオコー合同葬」には、同業の有力企業経営トップ、取引先幹部社員、ヤオコーの社員など、約2200人が参列した。午前11時、お別れの会は、おごそかな雰囲気の中にも粛々と始まろうとしていた。
 幸夫は、祭壇に飾られたやさしい表情の母の遺影を見つめながら、母を襲った長い闘病生活の苦しみを思っていた。経営の第一線を退いたばかりの30年ほど前、母のトモは雪の日に転倒して背骨を傷めてしまった。そのときの打撲に加えて、骨粗鬆症(こつそしょうしょう)も重なり、その後の生活は背骨の痛みとの闘いだった。
鶴ヶ島の関越病院に入院してからは、寝たきりの状態が3年以上も続いていた。背中の痛みは想像以上にひどいらしく、壮絶な闘病生活だった。
 小川町の貧しい古物商の家(門倉家)に生まれ、若いころから苦労していたので、もともと母はずいぶんと我慢強い性格ではあった。病気は相当に苦しかったにちがいないが、それでも弱音を一つ吐くことがなかった。
 ときどき病院に見舞いに訪れる幸夫や弟の清巳(社長、59歳)が会社の業績や新しい店の話をすると、ニコニコ笑って、いつもの口癖で「会社を頼んだよ」と答えてくれた。
 2007年度の決算も好調だった。売上高1882億円、経常利益69億円。関東圏での100店舗達成も間近に迫っていた。経営に直接タッチすることはなくなっていたが、幸夫・清巳の兄弟にとって、母は精神的な支えであり、かけがいのない良きアドバイザーだった。
「どちらかというとお父さんっ子だった」清巳社長にとっても、喪失感は相当に深かった。その後に発刊された社内報の「トモ名誉会長追悼特別号」に、清巳は「母を偲んで」という文章を寄稿している。
2ヶ月前(6月26日)に、兄の幸夫を継承して社長に就任したばかりの清巳の姿を祝福してから、母はあの世に旅立っていった。

 長い闘病生活の末に
 司会の紹介に促されて、幸夫は席を立った。お別れのあいさつである。
孔雀の間に臨席してくれた多くの会葬者に向って、そして人生でもっとも敬愛する母を想って、感謝の意をこめてマイクに向った。
 「本日は、月末の大変お忙しい中を、このように多くの皆さま方にご会葬いただきまして誠にありがとうございます。あらためて心より感謝申し上げます。・・・名誉会長の生涯は、文字どおりヤオコーそのものでした。学校を出て2年ほど小学校の先生をしていました。今でも『先生、先生』と慕ってくれる生徒さんがおられます。その後、父と結婚し、八百幸商店を『スーパーマーケットヤオコー』に商売替えしたのは母の決断によるものであります・・・」。
 長い闘病生活のあと、トモが病院で息を引き取ったのは8月14日。享年87歳。家族と近親者による密葬は、8月18日に済ませていた。やさしい人柄だったので、昔からの社員や親しくしていた小川町の人たちもたくさん弔問に訪れていた。
 川野会長の挨拶に続いて、取引先を代表して吉見商事の大久保政一会長(当時)が弔辞を述べた。吉見商事は、ヤオコーと古くから付き合いのある問屋である。昭和43年に、トモ名誉会長が小川町ショッピングセンターの用地(600坪)を取得しようとしていたが、銀行から融資を受けることができず、金策に窮していた。
そのときに、一時的に資金を融通して、ヤオコーのスーパーマーケットへの進出を後押ししてくれた大恩人である。
 ヤオコーの社員を代表して、山口久継常勤監査役(当時)が弔辞を述べた。山口監査役のあいさつは、自作の句で終わった。
〈ひぐらしが静かに告げる訃報かな カナカナに在りし日を偲び汗を拭く〉。
静謐が訪れて、献花がはじまった。主要取引先、一般の取引先、社員の順である。
日本スーパーマーケット協会の清水信次会長、日本チェーンストア協会の林紀男会長に続いて、大手量販店のトップ経営者たちが祭壇に花を添えた。その中には、㈱しまむらの若き経営者、野中正人社長の姿もあった。
 社員たちによる献花の列が続いていた。幸夫はひとりひとりと会釈をしながら、楽しかった母との遠い日のことを思い出していた。ひとりの若い女性従業員が、白いトルコキキョウを献花した瞬間だった。まったくの別人ではあったが、その横顔が、長い間、母親トモ会長の秘書役を務めていた島崎(旧性:豊田)マキ子の振袖姿を連想させた。

 母との思い出はいつも曇天の日
 昭和38年12月、トモと幸夫は、めずらしく東京日本橋の三越本店に買い物に来ていた。その日も天気はやっぱり曇りだった。暮れのデパートは、買い物客でごった返していた。今から思えば、あの当時、めちゃくちゃに忙しかったはずの母親が、幸夫との買い物の時間などをよくぞつくれたものだと思う。
 「幸夫、ちょっと待ってね。あの着物、(豊田)マキちゃんに似合うと思わない?」。
呉服売場の前で、展示されていた奇麗な振袖を見た母は、その前で釘付けになってしまった。呉服の売場ではなく、本来の目的は、その奥にある紳士服売場だったはずである。幸夫には、母親の視線を引きつけたものの正体がすぐにはわからなかった。
 前年(昭和37年)の春に、幸夫は一浪をして県立浦和高校から東大教養学部文科Ⅰ類に合格していた。しかし、大黒柱の父親を失ったあとの家業を守るために、川野家では幸夫の大学合格を祝うひまもなかった。そうこうしているうちに、なんとなく1年以上が過ぎていた。
 母親としては、その埋め合わせのつもりで、成人式のお祝いに幸夫にオーバーコートを買ってあげるつもりだった。ところが、3階でエレベータを降りて呉服売場の前を通りかかったときに、母の気持ちのスイッチは、幸夫と一緒に来年1月に成人式を迎えるふたりの女性従業員に向かってしまった。
 幸夫もよく知っている仲良しの店員、豊田マキ子と贄田(にいだ)文子である。
マキ子には当時、親しく付き合っている恋人がいたが、両親からは交際を反対されていた。同じ年ごろだったから、幸夫はしばしばマキ子から恋愛相談を受けていた。
 母親のトモは、いい意味でも悪い意味でも、即断即決の人であった。
 「マキちゃんと文子ちゃんのふたりに、あの振袖を買ってあげたいんだけど」。
 「いったいぜんたい、いくらくらいするのよ、母さん?」。
 幸夫は、おそるおそる振袖の値札を手にとってみた。ゼロがたくさんついている。しかも、買うのはたぶん二組である。これで、自分のオーバーコートを買うお金が消えてしまうことは明らかだった。
 「幸夫、悪いけど、あの・・・」。
 「“あなたのコートはまた今度”、ということですよね」。
 いずれは埋め合わせができる家族の都合よりも、従業員の幸せや喜びを真っ先に考えてしまう母親の行動を、そのときは「いかにも母らしいな」と思ったものである。自分はきっと、苦笑いをしながら三越の階段を下りたにちがいない。今では、そのときの母の真剣な無邪気さがなつかしくもある。
 その後しばらく、幸夫はオーバーコート無しで、下宿先の大泉学園から東大の駒場キャンパスまで通うことになった。こんな強烈な印象を残す事件があったからなのだろう。
 母との外出の思い出は、寒空でいつも曇り日である。