第20回「大卒採用大作戦」『チェーンストアエイジ』2009年7月1日号

(前号までのあらすじ)
 小川ショッピングセンター(SC)を開店して以来、ヤオコーは近代的な食品スーパーとして順調に離陸を始めた。川野トモ(元名誉会長)と幸夫(現会長)に、二人の強力な助っ人が現れた。昭和47年に実弟の川野清巳が、翌48年には義兄の犬竹一浩がヤオコーに入社してきた。3人は、川野トモ社長のもとで、ヤオコー発展の30年をリードしていく。


昭和50年6月、小川SC事務所
「3年後に10店舗、5年後には、30店舗」。
川野幸夫(当時、33歳)は、事務所の壁に貼ってある1枚の紙を眺めていた。先月、箱根の小涌園で開かれたペガサスクラブの勉強会で、チーフコンサルタントの渥美俊一先生(当時、50歳)から、自社の成長目標を立て、皆の前で宣誓するように促された。
「宣言を自筆で書いて、事務所の壁に掲げること。毎日、その数値目標を確認するように!」
渥美先生からの指示は具体的だった。その教えを忠実に実行したまでのことだったが、祖父の清三会長(当時、74歳)や母親のトモ社長(当時、58歳)は、幸夫の宣誓紙を見て、「30店舗はいつになるの?」としばしば聞いてきた。宣言した当面の目標「3年で10店舗」は、十分に達成可能な目標だと幸夫は思っていた。それには、きちんとした裏づけがあった。
母親のトモは、用意周到だった。小川SCの用地取得資金を使って、将来の出店に備えて、小川町の周辺に土地を購入していた。小川町に3ヶ所、その他に嵐山(新店)と行田など、全部で5ヵ所の用地を仕込んであった。
会社は、まずまずの業績を挙げていた。12月には5号店を越生(おごせ)に出店することが決まっている。昭和50年度末で、売上は20億円を越えるのが確実そうだった。そして、この3年間、新規に出店した店の全てが初年度から黒字になっていた。来年には、岡部(6号店)、児玉(7号店)、境町(店番なし)、桜ヶ丘(8号店)の出店が予定されている。
事業は順風満帆に見えるが、幸夫の気持ちはいまひとつ浮かなかった。頭痛の種は、人材不足にあった。会社が小さいので、なかなか優秀な人材が集められない。
前年には平崎進一(当時34歳、元常勤監査役)が、今年に入ってからは細井和夫(当時33歳、その後、三陽商会上海勤務)が入社してくれた。初代の組合委員長を務めることになる平崎は、中途からの採用だった。桜ヶ丘店で衣料部門の立ち上げに携わることになる細井は、西武百貨店勤務を経て、当時は丸広百貨店に勤めていた。
細井は菅谷中学校の生徒会長で、犬竹とは川越高校の同級生だった。幸夫も小川中学校の生徒会長だったので、細井とは中学高校時代からの知り合いだった。小川信用金庫の梅澤忽兵衛理事長の腹違いの弟、梅澤峰夫先生には、細井も幸夫も中学時代に英語を教わっていた。
優れた人材を必要としていた幸夫は、近親者の犬竹や細井のような同級生に声をかけていた。それでも、中途採用者をリクルーティングするだけでは、急激な成長を担ってくれる人材を集めることはむずかしそうだった。

利益の3分の1を募集広告費に 
犬竹一浩(当時、33歳)が、吹上店に通勤する途中で、小川SCの会社事務所に顔を出した。義兄の犬竹も、三共製薬の営業マンからヤオコーへの転職組である。ヤオコーに勤めてからは、わずか半年で吹上店(4号店)の開店店長を任されていた。
「幸夫さん、小売の商売は細かいね。利幅がうすくて、なんぼ売ってもうからないわ」。
店長見習いとして働きはじめた長瀬店(3号店)では、大晦日の売上が600万円だった。暮れの忙しいときに、20人ほどが一所懸命に働いて、山ほどの商品を動かしてもそれだけである。粗利益もせいぜい20~25%程度だった。
年商3億円だから、自分が三共のMR(医療情報担当員)として1人で稼いでいた金額と大して変わらない。昔の諺では「花八層倍、薬九層倍」といって、医科向けの薬品の粗利益率は9割ほどになる。疲労感を隠せない顔でいる一浩に向って、幸夫は言った。
「犬竹さん、医者は毎日、薬を買ってはくれないだろう。小売業はちがうよ。客は毎日、店にやってくる。店数を増やすことができれば、小売業のほうが将来は伸びるよ」。
小売業界に転身したばかりで、努力があまりに報われないと嘆いている一浩を勇気づける幸夫からの激励の言葉だった。
「ラーメン売って、ステーキ食おう。パブリカ売って、ベンツに乗ろう。なんて喩えもあるよな」。
われに戻った一浩は、幸夫の比喩に続いて、自分から一言を加えた。
「それじゃ、どうせやるなら、大きくなろう!か」
2人は顔を見合わせて笑った。
大きくなるには、店の数を増やさなければならない。
「でも、とりあえずは、優秀な仲間が欲しいよな!」
幸夫は一浩に、大卒社員の募集広告を打つ計画を打ち明けた。求人情報誌「リクルートブック」を使って、新卒生に向けて大々的に募集広告を出す企画である。「日本リクルートセンター」(現、リクルート)は、東大新聞の広告取りから事業を起こした江副浩正社長が、始めた会社であった。学生ベンチャー企業のはしりで、世間から注目され始めていた。
首都圏でヤオコーなどの新興企業の営業を担当していたのは、相場春夫であった。相場は、リクルートではじめて高卒社員から常務取締役に上り詰めた傑物である。幸夫は相場と相談して、大卒社員の募集広告に、1500万円を投じる決断を下した。当時の年商は20億円、経常利益は4500万円だった。利益の3分の1に当たる1500万円を、幸夫とトモは新卒社員の募集に賭けてみることにした。

なんと7人の大卒を採用できました!
 滝沢勝雄(現、小川SC店長)の社員番号は、「7600083」である。ヤオコーが学卒の採用をはじめた初年度、1976年の入社である。
社員証の最後の1ケタはコンピュータ用のチェックデジットだから、昭和51年入社で8番目だということがわかる。
駒澤大学を卒業予定の滝沢は、地元埼玉県での就職を考えていた。もちろん、自宅に送られてくる「リクルートブック(1976年版)」には目を通していた。流通業を志望していたので、地元企業の与野フードセンターやマミーマート、立川のオリンピックなどを検討していた。
当時、滝沢は板橋に下宿していた。東武東上線を利用すると、小川町までは1本だった。面接の日は、期待に胸をふくらませて電車に乗った。近くにある西友のような店を探すつもりで、小川の駅で電車から降りた。駅前に「小川ショッピングセンター」という小さな150坪の店を見つけた。スーパーの2階が、ヤオコーの本社事務室だった。
滝沢のほかにも、リクルート効果でたくさん学生が面接に来ていた。小川町に来るのがはじめてで、多くは場所がわからなくて右往左往していた。大卒一期生の候補者たちは、面接が始まるまで、川野幸夫専務を待たせることになった。
面接会場では、若い川野専務が、小売業の将来について熱く夢を語りかけた。滝沢は個人面談で何を話したかは覚えていなかった。しかし、全部を比べてみて、ヤオコーを第一志望にすることにした。訪問した企業の中では、いちばん小さな会社(資本金980万円)だった。それでも、若い専務と女性社長で、リクルートに大々的に広告を出すくらいだから、将来はいちばん伸びる可能性が高いと考えた。
昭和51年3月、無事に大卒社員1期生7人がヤオコーに入社した。1期生のうち、現在まで3人が社に残っている。滝沢勝雄、笠本秀之、浜村登のである。
募集活動の企画を担当した相場の手腕はさすがだった。虎の子の学卒社員を7人も採用できたので、トモと幸夫は大いに喜んだ。その後も数年間、ヤオコーはリクルートブックで募集広告を掲載し続けることになる。
敏腕営業マンの相場は、やり手だった。ヤオコーが新卒の募集に成功した最初の年、リクルートの営業のコピーは、「埼玉県のスーパー、ヤオコーでも、リクルートに広告を掲載したら、なんと大卒7人が採用できました!」だった。次の年から北関東の多くの小売企業がリクルートブックを採用しだした。