第18回「ヤオコー、近代化に動き始める」『チェーンストアエイジ』2009年6月1日号

(前号までのあらすじ) マルエツでの修業を終えた川野幸夫(現、ヤオコー会長)は、小川町に戻って母親のトモを助けて働き始めた。幸夫が帰郷した年(昭和44年)、ヤオコーは小川と嵐山の2店舗で年商2億6000万円。トモ(当時、53歳)が育てた女性従業員と古参の男性社員が中心の小さな地方スーパーだった。


昭和45年夏、小川町ヤオコー旧1号店
  「幸夫さん、その顔じゃ、お客さんが逃げてしまいますよ。笑顔、笑顔!」島崎マキ子(旧姓豊田、当時28歳)が、幸夫の顔の前に手のひらをかざした。考え込むと、幸夫はついつい仏頂面になってしまう。同じ年のマキ子に、そのことを指摘されて幸夫はわれに返った。「そうか、お客さんが自分のことを見ているか・・・」。
 店の商品陳列のことで、番頭の児玉勇(当時、36歳)と意見が対立したばかりだった。それが顔に出てしまっているらしい。「小売業を自分の一生の仕事にしたい。ヤオコーを従業員が誇りを持って働ける会社にしたい」。幸夫はそう考えて、母と二人三脚で商人の道を歩み始めていた。
 小売業についての勉強も欠かさなかった。忙しい中でも、時間を見つけては経営書を読み漁っていた。セミナーにも積極的に参加することを厭わなかった。理屈で負けることはなかったが、現場を動かすことは、また別の話だった。
 経験で仕事を進めようとする古参社員の児玉勇とは、しばしばぶつかっていた。今日も、朝方に自分が直したはずの陳列が、夕方には元に戻っていた。こちらは弁が立つので、その場では納得したような顔をするが、従業員は現場の長である勇の指示にしたがって動いている。それが現実だった。
 幸夫とトモがスーパーマーケットの事業に対して抱いている夢は、人一倍に大きかった。しかし、現実は厳しかった。人はいない、優秀な人は来ない、店数は増やせない。帰郷した翌年の売上高は3億円、翌々年は年商3億2000万円。売上は伸びていたが、先行している関西や東京のスーパーに比べて、それは目を見張るような数字ではなかった。
 セルフサービスでの販売や仕入れの仕組みづくりについて、ヤオコーは大きく遅れをとっていると幸夫は感じていた。1年半、修業を積んできたマルエツ(高橋平八郎社長、当時、社名は「魚悦」→「丸悦」)では、自分が大宮大門の店を手伝っている間に、4店舗から6店舗に店数が増えていた。他社から学ぶべきことは、山ほどあった。

 大手に対する焦り増す
  昭和40年代の半ば、日本は高度経済成長の真っただ中にあった。流通業界の地図が大きく塗り変わろうとしていた。企業同士の合併と店舗の大型化が進行していた。
 昭和44年に、岡田屋とフタギが合併してジャスコが設立された。昭和46年には、ほていやと西川屋の両社が合併してユニーが誕生した。昭和47年にダイエーが東証1部に上場。売上高1兆円のチェーン小売業が誕生することも夢ではなくなった。日本型スーパーストアが、もっとも輝いていた時代である。
 関東のスーパー企業も、それに負けず劣らず勢いが良かった。上野光平が支配人を務めていた西友は、東京西地区に82店舗で年商955億円。伊藤雅俊社長のイトーヨーカ堂は、東京の下町を中心に19店舗で年商350億円。流通各社は、年率30~40%の高い成長目標を設定していた。激しい立地競争は、商店街との間で摩擦を引き起こした。流通規制の引き金(大店法の成立)が引かれるタイミングが目の前に迫っていた。
 埼玉県の田舎町にあって、ヤオコーは人材面、資金面、組織面で大きなハンディキャップを背負っていた。このままでは、大手の流通業から置いてきぼりをくらいそうだった。キャッチアップのために、多店舗化と店舗の大型化に取り組むことが急務だった。トモと幸夫は、深い焦燥感の中にあった。

 関西スーパーを視察する
 「うちの課題は、店舗の運営と立地ですよね」。
 幸夫はしばしばトモに同意を求められた。経営のすべてが課題のようにも思えたが、幸夫の見方もまた、基本的にはトモと同じだった。大手流通企業に伍して、ヤオコーを大きく立派な企業にしていくためには、2つの課題を早々に解決しなければならない。
 昭和33年、八百屋からスーパーに業態を転換したヤオコーは、いち早くセルフサービスを取り入れていた。近代化に踏み出してはいたが、幸夫にはすべてが中途半端に思えた。その後も生鮮部門は、商品をプリパックせずに対面販売を続けていた。魚と肉はその場で包んで、値段を記してお客様に手渡しするやり方だった。
 販売の効率をもっと上げていくには、全商品のパッケージ化を実現することが先決だった。ところが、生鮮品の対面販売になれている古参の従業員は、仕事のやり方を変えることに難色を示した。とくに、魚や肉をあつかう職人たちからの抵抗が大きかった。
 昭和46年、トモと幸夫のふたりは、古株の従業員たちを説得して、半ば強制的に関西のスーパー見学に連れ出した。当時、生鮮品に関してもっとも先進的な取り組みをしていた関西スーパー(当時、北野祐次社長)が、ヤオコーの店舗視察を快く受け入れてくれた。この研修旅行には、京都での1日観光が組み込まれていた。いつも一生懸命に働いてくれている従業員に対するトモの心配りだった。
 百聞は一見に如かず。関西スーパーでの視察で、もっとも進んだ売場レイアウトと陳列方法を従業員たちは目のあたりにした。広い売場に明るい照明、きれいにパッケージ化された生鮮品。買いやすい売場と自由に選べる商品の陳列。生鮮品のパッケージ化によってセルフ販売の効率が高まり、店舗の大型化と同時にコストダウンが図れることを、トモと幸夫も確認できた。

 小川信用金庫が融資
  もうひとつの大きな課題は、店舗の立地だった。昭和43年に、ヤオコーは武蔵嵐山に支店を出した。番頭の児玉勇が店長を務めていたが、駅から離れた不便な場所にあって立地がよくなかった。嵐山店の運営について、児玉店長は非常な苦労を重ねていた。金庫が盗まれたり、中途で採用した職人たちが仕事をサボったり、嵐山店がヤオコーの業績の足を引っ張っていた。
 小川の本店は3度の改装を重ねて、売場が90坪に拡張されていた。本店は、これ以上は売場を拡張できる余地がなかった。また、トラックなどの交通量が増えて、自転車での買い物が危険な状態にあった。幸夫がマルエツから戻ってくるのを待って、トモはお客様にとって買い物が便利な駅前の周辺に、新しい店舗用の土地を探していた。
 昭和43年、トモの用地獲得作戦がようやく実って、600坪の土地を買収できる直前までこぎつけた。パン工場の跡地で、取得価格は5000数百万円。年商3億円のヤオコーにとっては、多額の投資だった。川野清三社長は、トモが持ち込んだ書類に、今度は黙ってはんこをついてくれた。
 ヤオコーのメーンバンクは、埼玉銀行だった。小川支店レベルでは、土地取得のために融資を受けられることが決まっていた。ところが、ある日、小川支店の融資担当者が、あわてた顔でトモのところに飛んできた。
 「先ほど、本店の審査部から連絡が入りました。駅前の土地融資に関してですが、担保不足が判明いたしました。申し訳がございませんが・・・」。
 ヤオコーの業績と財務内容を調べたところ、担保不足が明らかになった。「土地取得用の資金は融資できない」との最終判断を審査部が下した。担当の銀行員に平謝りされても、土地の契約はすでに終わっている。手付も打ってあった。
 思いあぐねたトモは急遽、主要取引先の吉見商事(本社、熊谷市)を尋ねて、3ヶ月の手形(1200万円)を切ってもらうことを願い出た。この話は、すぐに小川信用金庫の梅澤忽兵衛理事長の知るところとなった。梅澤理事長から、トモに呼び出しがかかった。
 「トモさん、あなたの働きぶりは日ごろから見ているよ。言ってくれれば、貸してあげたのに」。
 梅澤理事長は、八百屋幸商店に嫁いだときからのトモの苦労を知っていた。3ヵ月後に、埼玉銀行に代わって、小川信用金庫が用地取得資金を融資してくれることになった。ただし、土地の係争問題があって、建物の建設までにはひと波乱があった。昭和47年5月の小川ショッピングセンター開店までには、さらに3年の時を待たなければならなかった。

<付表>
 上位小売業の売上高と店舗数
  昭和45年と昭和50年 1975(昭和50年) 1970(昭和45年)

フォーマット 企業名 年商(億円) 店舗数 年商(億円) 店舗数
日本型スーパーストア
  イズミヤ 1,081 53 356 36
  イトーヨーカ堂 1,991 49 350 19
  ジャスコ 1,950 94 750 71
  西友 2,990 113 955 82
  ダイエー 6,400 119 1,916 43
  平和堂 373 10 50 3
  カスミ 76 16 17 7
スーパーマーケット
  マミーマート 39 9 6 3
  ヤマナカ 182 22 54 15
  ヨークベニマル 215 20 42 19
  ライフコーポレーション 212 20 39 9
衣料スーパー
  しまむら 34 6 8 3
  ヤオコー 24 6 3 2

 出典:日本リテイリングセンター(2008)『ペガサスクラブの過去と現状』から一部抜粋 (1987)『ヤオコー30年のあゆみ』