(前号までのあらすじ) 昭和32年、「島村呉服店」(㈱しまむらの前身)は、セルフサービス方式を導入し、総合衣料品店への第一歩を踏み出していた。その同じ年に、川野トモ(ヤオコー元名誉会長)も、嫁いできていた「八百幸商店」をセルフ方式の食品スーパーに変えたいと思っていた。しかし、嫁の立場もあって、義理の両親を説得するのは容易ではなかった。助け舟を出してくれたのは、群馬県前橋市でいち早くスーパーに進出して成功を収めていた「松清(現在のフレッセィ)」の創業者、植木英吉氏(故人)であった。
昭和33年5月、群馬県前橋市「松清」本店
「あのときの母の勇気と決断が、今のヤオコーのすべての出発点だったと思う」。
川野幸夫(ヤオコー現会長)は、自分が高校一年生だった当時の母親の姿と行動を回顧して感慨深げに語る。
小川高等女学校で生徒会長だった門倉トモ(旧姓)は、聡明で向上心の強い少女だった。女学校を卒業した後は、東京神田の村田簿記学校に通うことになった。昭和16年、縁あって小川地方で一番の繁盛店「八百幸商店」に嫁いで来ていたトモは、学校で習った簿記の知識が仕事に役立てられたことがうれしかった。
夫の川野荘輔(昭和36年没)は、働き者でおだやかな性格だった。手先が器用な職人肌の人で、魚をさばく腕前は天下一品だった。しかし、商売が好きで販売や接客サービスに積極的だったのは、荘輔よりも妻のトモ(当時、38歳)のほうだった。
勉強家のトモは、八百幸商店の経営に役立てようと、流通業界誌の『商業界』を愛読していた。忙しい仕事の合間をぬって、商業関係の講演会にも参加していた。新興のスーパーマーケットの動向について、トモは一生懸命に情報を集めていた。
昭和32年に、義父の川野清三は、八百幸商店を法人化(有限会社)していた。清三社長は、堅実なタイプの経営者だった。老舗で地域一番の繁盛店を継いでいたからだろう。商売については慎重なところがあった。その一方では、「小川町青果海産物商業組合」の会長を務めていたから、世の中をよく知ったひとでもあった。先を見通す能力も持っており、積極的に新しいことを商売に取り入れることについては躊躇しなかった。
昭和30年にはすでに、八百幸商店の店頭には日本NCR(日本ナショナル金銭登録機)のキャッシュレジスターが置いてあった(トモ名誉会長の店頭での写真)。
群馬県前橋市の松清を訪問
それは、5月のある日、小川町に営業で回って来ていたNCRの営業マンが、勉強熱心なトモに耳打ちしたことがきっかけだった。その営業マンが担当していた群馬県の食料品店が、セルフサービスに転換して業績を伸ばしはじめていた。
「食品スーパーですごく流行っている店が前橋にできましたよ。奥さん、一度、見に行ってみたらいかがですか?」。
「お店の名前は?」
「店名は、松清(マツセー)本店。社長は、植木英吉さんという方です。やり手だけど、とても親切なひとですよ」。
NCRの営業マンが言うには、「モダンなお店で、お客さんが店から溢れている」ということだった。商業誌の記事からは、近い将来、スーパーマーケットの時代が来ることを知識として知っていたが、実際にセルフサービス方式で運営されている食品スーパーを見たことはなかった。
話しているうちに、トモは自分の目でその店の様子を確かめてみたいと思った。その日の夕方には、夫の荘輔とスーパー見学のことを相談してみた。義父の清三に願い出て、単身で前橋にある松清本店を訪問する許しをもらった。
北関東ではじめてのスーパーマーケット「松清(マツセー)、中央店」は、上毛電鉄前橋中央駅から少し離れた中央通り商店街の外れにあった。2月14日に開店したばかりの中央店は、売場面積が60坪ほどだった。単なる噂ではなく、松清の本店は大いに繁盛していた。
はじめて見る本格的なセルフ販売の食品スーパーは、トモにとっては何もかもが驚きだった。店内の陳列が整然として、棚に置いてある商品が清潔そうに見えた。商品の回転が速いからだろう。商品の補充やレジ打ちをする女性社員たちはきびきびと働いていた。生鮮部門は対面だったが、従業員それぞれの持ち場と仕事内容がきちんと決まっているように見えた。新型のキャッシュレジスターの前を客の流れが途切れることがなかった。
社長本人と話してみたいと思ったトモは、レジ打ちをしている女性店員に声をかけた。
「植木社長は、いらっしゃいますでしょうか?」
「はい。どんなご用件でしょうか?」
「川野トモと申します。埼玉県の小川町で食料品店をやっています。将来、スーパーをやりたいと思っています。社長様にお話をうかがうことができないかと思いまして・・・」。
突然の訪問にもかかわらず、植木英吉社長はトモを喜んで迎えいれてくれた。
「遠いところをよくいらっしゃいましたね。何なりと、たずねてください。何にでもお答えしますよ。もう店の中はごらんになりましたか?」。
植木社長は、業界の数字にも明るかった。自分の店を案内してくれた上に、さまざまな経営上の数字を教えてくれた。植木社長は、その場でセルフサービスに転換してからの売上データと客数の増加を示してくれた。
「開店してから半年も経っていませんから、年間を通しての数字はわかりませんが、食品スーパーにしてからの1日の客数はほぼ1000人です。平均の客単価は200円前後といったところですね」。
年商では6000~7000万円くらいになりそうだった。セルフサービスの導入で、仕事の合理化が進み、一人当たりの販売額も約3倍に伸びていた。
これが将来の自分たちの生きる道
昭和33年当時、全国の一般小売店では、1店舗当たりの年間販売額が285万円、従業員一人当たりの売上高は108万円であった(「商業統計調査」)。それに対して、松清のように、セルフサービス方式を採用した食品スーパーは、平均売上高が1億6000万円、従業員一人当たりの売上は約400万円であった。売場面積は約95坪、従業員は30~40人で運営されていた(林周二『流通革命新論』中公新書、1964年、149頁)。
昭和32年に、全国でスーパーマーケットは97店あった。そのうちの約半分の49店が年商1億以上であった。翌年に、スーパーの数は205店(年商1億円以上、93店)に倍増することになる(日本商工会議所調べ)。
ちなみに、スーパーマーケットの定義は、「売場面積が100㎡(30坪)以上で、セルフサービス方式で販売している小売店」のことである。そのうちで、食品中心のスーパーは約3分1であった。当時、スーパーマーケットに分類されていたセルフ販売店の多くは、初期のしまむらが志向したようなディスカウントタイプの「衣料スーパー」か、現在の総合スーパーの原型である「スーパーストア」であった。
松清中央店を見学して従業員の働きぶりを見たトモは、「これが将来の自分たちの生きる道」だと直感した。植木社長は、その場でセルフサービス化を熱心に勧めてくれた。しかし、自分が置かれている現実を考えると、トモは心もとない気持ちになってしまった。
「わたし自身は、是が非でも松清さんのようなスーパーをやりたいのですけれど、両親が賛成してくれるかどうか。嫁の分際ですから、説得できる自信がないのです」。
トモの弱気な気持ちを諭すかのように、植木社長はきっぱりと言ってくれた。
「店がこんな状態ですから、今日、明日というわけにはいきませんが。数日したら時間がとれるようになるはずです。よろしければ、わたしがご両親を説得するお手伝いをしてさしあげますよ」。
植木社長自らが小川町の八百幸商店まで出向いて、義理の両親である川野清三夫婦を説得してくれるというのである。