第15 回「セスナ操縦を夢見て『チェーンストアエイジ』2009年4月15日号

(前号までのあらすじ)
東松山駅前への出店後、大手量販店との激突でしまむらの経営は厳しい状態にあった。昭和47年以降は、チェーン展開が一時的に頓挫していた。しかし、廣瀬や藤原らの優秀な大卒社員で力を蓄えたしまむらは、昭和51年に4年ぶりで新店をオープンする。


平成19年12月27日、インドネシア、ジャカルタ郊外
 ジャカルタ郊外にある国内線空港の滑走路―。
旧式のセスナ172型機の右座席に、インドネシア人の試験管が陣取った。1週間の年末休暇をとった藤原秀次郎(現しまむら会長、当時65歳)は、航空パイロットの最終実技試験に臨んでいた。インドネシア滞在5日目。ガルーダ航空の定期便が滑走路を離れたら、つぎは自分が飛び立つ番だ。
 “Mr. Fujiwara. You take off, please!”
 訛りの強いインドネシア英語で、藤原の隣に座った試験官から「離陸せよ」の指示が出された。右手親指で、藤原はスロットルボタンを深く押した。160馬力5200CCのエンジンがうなりを上げて、機体がするりと前に滑り出た。
 ““Okay, Let’s go.”(「よし、いくぞ!」)
プロペラの風切り音がいちだんと高くなって、セスナは滑走路を気持ちよく滑り始めた。右手でスロットルレバーをフルに押してエンジンを全開にし、左手で軽く握っていた半円形の操縦桿を手前に引いた。その瞬間、4人乗りのセスナ172がふわりと空中に浮いた。
 “Climb up until 1000 feet high, then right turn!”(「高度1000フィートまで上昇してから、右旋回せよ」)
 あとは試験官の指示にしたがって、旋回と8の字飛行を繰り返すだけだ。足元のペダルを右に踏み込んで、垂直尾翼のラダーを右前方向にコントロールすればよい。同時にハンドルを右に軽く当てれば、機体は自然に右に旋回していく。この動作は、練習のときはいつもうまくいった。女性教官と1人向き合って、訛りの強い英語で通信の試験を受けた昨日よりは楽なはずだ。
 テストフライトを無事に通過すれば、とうの昔に調布飛行場ではじめて空に飛び立ってから40年目にして、自家用パイロットの免許が取得できる。「慎重に、落ち着いて」。藤原は、はやる気持ちを鎮めた。

 セスナの免許が取りたい
 藤原が航空機の操縦に興味を持ったのは、25歳ごろである。模型づくりにはじまり、子供のころから乗り物が好きだった。14歳で二輪の原付免許を、16歳で小型4輪の普通免許(当時)を取得している。その延長で、ごく自然に自分で空を飛んでみたいと思うようになった。
 パイロット免許を取得するために、実家のある横須賀から4、5回ほど、パイロット訓練施設がある調布飛行場まで通ってみた。休日を利用しての遠距離電車通学である。しかし、毎週通うには、さすがに遠すぎた。働きながらのパイロット免許の取得は、いったん断念せざるをえなかった。
 ちなみに、当時、調布でパイロットの訓練学校を運営していたのは、「大洋航空」(旧「タテバヤシ・エアロクラブ」)である。同クラブは、「日本のライト兄弟」と呼ばれた大西勇一氏(現在、85歳)が設立したパイロット訓練学校である。昭和40年に藤原が乗ったセスナ172Mは、大洋航空の調布練習所が所有していた機体である。大西氏は、昭和39年に、群馬県館林市の旧陸軍空港施設を買収して「大西飛行場」(平成15年12月に閉鎖)を開港していた。
 藤原が再びパイロット免許の取得を思い立ったのは、会長に退いた翌年(2007年)の元旦である。すでに年齢は65歳。このタイミングを逃すと、パイロット免許が一生取れなくなると感じた。一念発起して、1年間で約40時間の飛行訓練を終え、航空無線通信と学識試験に合格していた。残るは、実技試験だけである。余分な時間はかけていられない。最短での資格取得のために考えたのが、インドネシで実技試験を受けることだった。
 最終の着陸段階で、機体に尻もちをつかせる失敗もなく、試験には無事合格した。帰国後3ヶ月で、インドネシアからパイロットの免許が送られてきた。日本の免許に切り替えたのは、2008年の7月のことだった。藤原の信条である。
「何ごとも自分でやってみればよい。専門家がやることだからと、むずかしく考えないほうがいい。たいていのことは、素人でも簡単にできることが多い」。

 「自分は運がよい人間」
 藤原秀次郎は、昭和15年に横須賀市で生まれている。姉2人、兄1人の4人兄弟の末っ子である。両親は、金物と家庭用品の店「フジワラストアー」(横須賀市大滝町)を経営していた。恒俊オーナーと同じで、生粋の商売人の息子である。長寿の家系で、父親は89歳で、母親は94歳で天寿を全うしている。
 父親の兵次郎(昭和63年逝去)がクリスチャンだったことから、兄弟姉妹は4人とも戦後地元に新設されたミッション系スクールに通っている。末子の秀次郎も、慶応義塾大学商学部に入学する前は、横須賀(当時、現在は鎌倉市大船)にある清泉学園付属小学校から中高一貫校の栄光学園へ進学した。栄光学園は、校長以下ドイツ人の神父が多かった。そこでスパルタ式の教育を受けたことが、藤原の人生に少なからず影響を与えている。
 藤原の子ども時代の風景がある。
 戦後すぐは、世の中が混乱の極みにあった。横須賀には、米軍基地とそこで生活をしている米軍兵士たちがいた。1人の市民として米兵やその家族たちの姿を見ていると、彼らは実にきちんとしていることがわかった。噂やメディアの情報ではいろいろ言われていたが、彼らとふだん接している庶民の感覚のほうが正しい。「庶民の判断は正しい」というのが、藤原の考えの根本にはある。
 慶応大学時代は、ノンポリ学生だった。当時、安保闘争で荒れていた学生たちのデモを見て、人数と時間のムダを感じた。父親の後ろ姿を見て、自然なかたちで商売の道に入った。卒業後は、実家のフジワラストアーを手伝っていた。しかし、当時29歳のとき、現在の奥さんとの結婚を両親に認めてもらえず、埼玉に駆け落ちすることになった。
 「どこへ行くのかを前もって決めていたわけではない。埼玉県の発展が頭にあったので、上野から高崎線の電車に乗った。県庁所在地の浦和をめざしたが、当時の電車はそこを通り過ぎて、次が大宮駅だった」。
 今にして思えばユーモラスな逸話ではあるが、本当の出来事である。間違って降りた大宮のアパートで、2人は新婚生活をはじめた。しまむらへの就職は、一生の仕事として考えたわけではなかった。新聞の募集広告に応募して、とりあえず食べるために選んだ就職先であった。今でも藤原は、自分は運がよい人間だと思っている。

 上空から店舗候補地をチェックする 
 昭和50年の秋、しまむら入社から5年後に、ふたたび飛行機に乗る機会が訪れた。調布飛行場でセスナの操縦桿を握ってから、10年が経過していた。しかし、今度は、自分が飛行機を操縦するためではなかった。昭和47年以来、しまむらが4年ぶりで新規に出店する店舗の予定地を、上空から確認するためであった。
 「知人のセスナで、埼玉と群馬の県境を飛ぶことにした。明朝、藤原さんと廣瀬さんは、館林の大西飛行場まで来るように」。
 島村恒俊オーナー(当時、社長)から、当時最も信頼が厚かった廣瀬義征(開発担当部長)と藤原秀次郎(財務・総務担当部長)の2人に声がかかった。セスナは4人乗りである。パイロットと自分以外に、残りの座席は2つである。
 翌日は日曜日だった。島村の妻(美智子)が紹介してくれた知人とは、大洋航空の社主、大西勇一氏だった。大西飛行場は、大西個人が開設した飛行場で、滑走路に遮断機があることで知られるめずらしい飛行場だった。
 当時は、パイロット養成の訓練施設として、また、航空測量の基地として活用されていた。オーナーからの伝言は、藤原と廣瀬にとっては唐突だった。翌年開店する予定になっているのは、児玉店(7号店、後に場所を移転)と境店(8号店)である。
 偶然にも、2店舗ともヤオコーとの共同出店である。とくに群馬県の境店は、ボーリング場の跡地で、約1000坪の敷地を1億円弱で購入する予定だった。出店したら撤退は許されない。前部座席には、パイロットの大西と社長の島村が、後部座席に藤原と広瀬が座った。大西が操縦するセスナは、3人を乗せて館林から、埼玉・群馬県境に向けて静かに離陸していった。