第13 回「大卒社員に仕事を任せる」『チェーンストアエイジ』2009年3月15日号

(前号までのあらすじ)
 昭和43年の春、チェーン化を推進したい島村恒俊オーナーと考え方が相容れなかった9人の男子社員が、しまむらを一斉に退社した。女性店長第一号となった伊藤孝子ら、残された社員とともに、恒俊は多店舗展開に向けて大卒社員の募集をはじめる。そして、廣瀬(元常務)、藤原(現会長)、後藤(現専務)らが入社してくる。


昭和44年4月、旧東松山店
 廣瀬義征(元常務、65歳)は、九州のホームセンター「ロッキー」(本社:熊本市、17店舗)で副社長をしている。昭和61年に、ホームセンター「セキチュー」(本社:高崎市)に転職して、同社が株式上場を果たすまでの13年間、専務(営業本部長)を務めていた。しまむらを離れて以来、ロッキーは2度目の就職先である。今は株式公開を目指して、ロッキーのディスカントストアへの業態転換に取り組んでいる。
 しまむら入社は、昭和44年6月である。翌年に藤原秀次郎(現会長)が、昭和47年には後藤長八(現専務)がしまむらに入社している。同期入社組には、その後、コンビニエンスストアの経営者に転身した内田富士男(当時、22歳)や、地区マネジャーを長年勤めた宇野昇(同、25歳)らがいた(どちらも病没)。
 廣瀬(当時、25歳)の実家は、群馬県のお寺さんである。本人は僧侶になる道は選ばず、芝浦工業大学の電子工学科に入学した。卒業後は3年間、製薬会社に勤務していたが、退職してしばらくぶらぶらしていた。復帰後の就職先は、松下電器産業と中埜酢店(現:ミツカングループ本社)に内定していた。本心では、ふたたびメーカーに入ってエンジニアには戻りたくなかった。
 迷っていたところで、読売新聞に掲載されていたしまむらの社員募集広告が目に飛び込んできた。製薬会社に在職中も、松下幸之助の経営書などを読んで、人間尊重の経営に感銘を受けていた。「将来は、できれば経営者になりたい」と思っていたところだった。
 東松山市材木町の事務所で、島村恒俊社長と面接をした。丸広百貨店の隣にしまむらの旧松山店があった。本部は2階事務所で、8畳と6畳の2部屋続きの狭い場所だった。その日の記憶では、外階段を上って事務所に入った気がする。
 「勉強家で、熱意をもって仕事に取り組んでいるな」が島村オーナーに対する廣瀬の第一印象だった。松下幸之助の著書をふたりとも読んでいたので、すぐに意気投合した。恒俊オーナーは、廣瀬に向かって言った。
 「わたしは小学校しか出ていない。大卒の君たちにし仕事を全部任せるから、入社したら自分たちの考えで思い切ってやってほしい」。
 その言葉が廣瀬の胸に突き刺さった。社長が家業としてではなく、きちんとした会社経営を目指していることは、計数管理を徹底させていることからすぐにわかった。廣瀬の気持ちは一瞬にして固まった。
 「5月の連休明けからお世話になります。よろしくお願いします」。
 熊谷から池袋経由で東松山に通うことになった。その後に入社してきた藤原や後藤も、40歳代半ばの島村オーナーの経営理念と向学心に相当な感銘を受けている。
 能力が高い大卒社員たちに徹底的に仕事を任せる。モチベーションをあげながら、お互いに競いあわせる。社員も任せてくれるオーナーのために、一生懸命に努力して働く。正直な商売、公正な競争、比類なき向学心。しまむらの社風に同調したひとたちが社員として残っていった。

 島村恒俊の「予言実行」
 廣瀬が入社したころ、しまむらは3店舗で年商4億円だった。年率50%の勢いで売上は伸びていたが、それに比例して借入金も増えていた。旧東松山店の土地建物に融資してくれた武蔵野銀行がメーンバンクで、小川町時代からの関係で小川信用金庫とも付き合いがあった。オーナーから聞かされる話は、それにしてはえらくスケールが大きかった。
 「将来は、1000店舗で売上を2000億円にしたい」。
 社長は度量が大きい人なので、スケールの大きいことを言うのだろうと何となく納得したものである。「予言実行」という言葉がある。同じことを話しているうちに、いつかそれが現実のものとなることである。恒俊オーナー本人も、ペガサスクラブの経営戦略セミナーや海外研修ツアーではいつも、渥美俊一氏に「経営の将来ヴィジョン」を書かされていた。そうしたマントラ(呪文)を、繰り返して社員に伝えていた。
 入社して2ヶ月間、廣瀬は見習いとして鴻巣店に勤務することになった。鴻巣店は、何度か従業員の使い込みがあったり、頻繁に店長が変わったりで、運営が難しい店だった。何もわからないので、最初は店に商品を並べる仕事からはじめた。2ヵ月後にはバイヤーに昇格した。婦人服・雑貨の担当者が全員辞めてしまったので、誰かがバイヤーをやらざるをえない。同期入社の内田や宇野とは笑って話したものである。
 「問屋への行き方がわからず、右往左往させられたなあ」。
 同僚になった伊藤孝子は、男子社員9人が抜けたあとでは、しまむらの大黒柱的な存在だった。店長であり、商品知識も豊富だったので、新入社員の廣瀬にとっては孝子が頼りだった。
 エンジニア出身の強みを活かして、自分は計数管理に徹することにした。数字を見る、見せることを売場や小売経営に応用していった。コンピュータはなかったので手計算をした。そうしているうちに「科学的管理法」が身についてきた。最初は、粗利益率も商品回転率もわからなかったが、2、3ヶ月で一人前の仕事ができるようになった。

 イトーヨーカドーと正面競合
 昭和45年の春に、「東松山ショッピングセンター」(新1号店)が東松山駅前にオープンした。廣瀬、内田、宇野らの大卒社員の入社から1年が経過していた。
 駅前の店舗開発は、入社2年目の廣瀬が担当することになった。建物はボーリング場の跡地で3層構造だった。1階にマミーマート(昭和40年創業、当時の社名は「八百清」)が、2階にしまむらが入店した。各階のワンフロアは450坪。東松山駅前のSCを開発・運営するために、両社は共同開発会社を設立した。マミーマート創業者の岩崎邦一氏(当時、45歳)が社長に、しまむらの島村恒俊オーナーが副社長に就任した。
 駅ビルを買い取るために、3億5000万円の資金が必要だった。マミーマートと折半で、小川信用金庫からの借り入れが決まっていた。番頭の玉田友男専務(当時、常務)が仲介してくれた案件である。恒俊オーナーは、お礼をかねて、梅澤惣兵衛理事長に面談に行った。梅澤氏は「おがしん」の創業者で人望のある人だった。あいさつに訪れた恒俊を前にして、梅澤氏は正直な気持ちを伝えてくれた。
 「島村さん、決まってから今さらだけど、こんな多額の金を借りるのはよく考えたほうがいいよ。将来、あなたが苦しむことになるのが心配だからね」。
 それが杞憂でないことがすぐに明らかになった。駅前への移転から半年後に、わずか300メートルしか離れていない目と鼻の先に、イトーヨーカ堂が出店してきたからである。売場面積は1000坪。しまむらにとって、創業以来はじめてともいえる経営上の危機が訪れた。
 ペガサスクラブの例会で、恒俊はイトーヨーカ堂の伊藤雅俊社長の姿をしばしば見かけていた。昭和45年、日の出の勢いのイトーヨーカ堂は、19店舗で売上高は350億円。3店舗で売上6億円のしまむらとは、世間の評判も業績にも雲泥の差があった。
 廣瀬は、当時を思い出して、今でも身のすくむ思いをすることがある。東松山駅前にイトーヨーカドーが出店してからは、どの商品も値段を半分に落としても“売り負けて”しまうのである。ペガサスクラブのセミナーで渥美先生から聞いた「上限プライスカット」の理論が脳裏をよぎった。上限プライスカットの理論とは、ある価格以上の商品は一切、売場に置かない割り切った商品構成を指している。廣瀬は恒俊に売場の現実を説明した。
 「社長、百貨店で5万円のワンピースが、この間、イトーヨーカドーで見たら2万9800円で売られていました。しまむらでは、同じ商品が1万4800円でも売れないのです」。
行き着いた結論は、イトーヨーカドーで売られている値段の3分の1でワンピースを売ることだった。1着9800円の値づけである。
 「廣瀬くん、ある程度は、品質を落としてもしかたがないだろうな。その値段ならば、お客様はしまむらで喜んでワンピースを買ってくれるだろうからね」。
 1万円を切る値段のワンピースは、値ごろ感があって買いやすい。たしかに、販売数は増える。しかし、それでは、粗利益が25%しか稼げない。年商6億円、借入金3億円の会社である。本当は、経営的には苦しいのである。