“進取の気性”と“堅実経営”のなぜ 埼玉県比企郡小川町――。 関東平野の盆地にある人口わずか3万8千人の小さな町から、戦後日本を代表するふたつの超優良小売業チェーンが生まれている。東京証券取引所一部上場企業の食品スーパー「㈱ヤオコー」(現在、本社川越)と「ファッションセンターしまむら」などを運営するカジュアル衣料品小売業の「㈱しまむら」(同、大宮)である。
小川町は、一時期、全国信用金庫の中で預金残高第6位(7561億円、平成9年)を誇っていた「小川信用金庫」の本店所在地でもある。「おがしん」の愛称で親しまれていた小川信用金庫は、ゴルフ場などへの不動産融資の失敗が原因で、1999年に経営が破綻する。しかし、1960年代から倒産までの約40年間、しまむらやヤオコーのような地場の中小企業を支援するため、地元の金融機関として資金を供給する役割を立派に果たしていた。
3つの会社の最初の店舗所在地は、小川町の本町通りをはさんで、道の両側500メートルのところにあった。旧県道254号線を東松山から東秩父方面に向かって、ヤオコー、おがしん、しまむらの順である。半世紀が経過したいま、その場所は、駐車場と地方銀行の支店と地元のバラエティストアに変わっている。
しまむらの前身は「島村呉服店」、ヤオコーの生い立ちは青果と乾物を扱っていた「八百幸商店」である。いずれも、戦前から小川町にあった繁盛店である。戦後まもない時期にいちはやくセルフサービス方式を導入し、業態を転換した。
しまむらの創業者は、島村恒俊(のぶとし)オーナーで82歳。ヤオコーの実質的な創業者は、川野幸夫会長・清巳社長の実母にあたるトモ元名誉会長である。残念なことに、川野トモ元名誉会長は。2007年9月に享年86歳で逝去している。
ふたりは5歳ちがいで、小川町小学校の同窓生である。机を並べたことこそないが、同じ校庭でかけっこしていたという。後年になってからは、日本リテイリングセンターの渥美俊一氏が主宰する「ペガサスクラブ」の公開経営セミナーに、仲良くいっしょに参加している。
店舗の数が2ケタになるまでの両社は、埼玉県北部から群馬県南部にかけて、人口1~2万人の小さな町や村を中心に、商圏を隣接させながら静かに成長していった。小さな商圏に照準を合わせたのは、ダイエーやイトーヨーカドーなど、そのころ圧倒的に勢いがよかった大手量販店との直接の戦いをさけるためである。
JR八高線、JR川越線、東武東上線など、大手が進出しにくいローカル線の沿線がねらい目だった。そのころに開業した県北部の4つのロケーションでは共同出店している。
県南部で店舗数を増やして力をたくわえたしまむらとヤオコーは、1980年以降、隣県の群馬、栃木、茨城、千葉など、埼玉県外に飛び出していく。
しまむらは、2000年に北海道に進出。2002年の沖縄出店により、全国47都道府県すべてに出店を終えた。1997年には若者をターゲットにした新しい業態「アベイル」を、1998年には、しまむらと同じ業態コンセプトの「思夢楽」で、台湾の台北市西北部に進出した。
それとは対照的に、ヤオコーはいまでも関東圏にとどまっている。2008年に店舗数は100店の大台に乗ったが、東京都と神奈川県は、いまだに店舗の「空白地帯」である。ヤオコーの長期経営計画には、2020年までに500店舗、売上高1兆円企業をめざすとあるが、関東圏を離れる計画はいまのところない。
積極的に店の数を増やしてはきたが、しまむらもヤオコーも、経営そのものは堅実である。両社はこの20年間では、特別な一時期を除くと、売上高成長率が年間10%~15%でほぼ一定している。1992年以降に出店したヤオコーの店は、すべていまでも営業をつづけている。しまむらも店舗の改装をすることはあっても、いちど出した店をむやみに閉じることはしない。
店舗開発の面でも人材の採用面でも、無理をしない心地よいスピードで成長しているのである。ヤオコーの川野幸夫会長に聞けば、「10%巡航速度の経営」の考え方なのだという。
外に向って出て行く「進取の気性」を持ちながら、決して無理をしない両社の「堅実な経営」は、小川町の風土から来たものだろうか?
それとも、たまたま業を起こした経営者たちの性格や特別なものの見方によるものなのだろうか?
2社のルーツが、たった3万8千人の人口しかない小川町にあるということを知ったときから、わたしはずっとそんな疑問を抱いてきた。
“関東の小京都”と呼ばれる町
小川町は、別名、“関東の小京都”とも呼ばれている。
秩父山系の東のふもと、緑豊かな山々に囲まれた盆地にあって、古くから和紙の町として栄えてきた。江戸時代の商家が記帳に使っていた大福帳は、ほとんどが小川町特産の細川紙であった。昭和初期までは、江戸と秩父、北関東を結ぶ街道の要所にあたり、和紙や絹、木材の市が立つ交易の場であった。
商業がさかんな町では、商談の場としてのお座敷文化が栄える。昭和40年ごろまで、小川町には、埼玉の遊興の中心だった大宮をしのいで、すくなくとも80人からの芸者衆がいた。「むらさき」「すし忠」「角屋」「永徳本店」など、黒板塀に囲まれた昔ながらの割烹料亭が、いまでもかなりの数がのこっている。
もし、小川の町に行くことがあったら、七夕まつりのころ、地元でもっとも格式が高いといわれる割烹旅館「二葉本店」(ふたば)を訪れてみてほしい。植栽がきれいに刈り込まれ日本庭園の池に、大きな錦鯉が悠然(ゆうぜん)と泳いでいる。
その内庭を眺めながら、剣豪の山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)に由来する日本五大名飯の「忠七めし」を食べる贅沢。お酒は、小川町霜里の篤農家が合鴨農法で育てた無農薬米から作られた吟醸酒「晴雲」がぴったりだ。
大正末期から昭和初期にかけて、相場で財を成した旦那衆が芸者衆を囲って羽振りのよい生活をしていた往時のおも影をしのぶことができる。
そして、小川町は、わたしにとって特別な意味を持つ場所である。
昭和52年の秋、しまむらとヤオコーが共同出店していた「児玉ショッピングセンター」(本庄市児玉町)を調査することになったからだ。その現地調査がきっかけで、2社の存在をいち早く知っていたことがその理由のひとつである。
わたしの姓が、町の名前とおなじ「小川」ということもある。
ある雑誌の編集者からは、「2社の生い立ちがそんなに気になるのなら、雑誌で、“小川町物語”を執筆してみませんか?」とそそのかされてもいた。
それにしても、埼玉県のほぼ真ん中にある小さなこの町から、なぜ2つの超優良小売チェーンが生まれたのだろうか?
その答えを求めて、まずは、両社が創業したころ、昭和20年代の小川町に戻ってみたい。