昭和30年2月、島村呉服店 島村呉服店の玄関前に、一枚の紙がそっと張り出された。和紙に墨の筆で書かれたしなやかな文字は、店主の手によるものであった。 「この店は広い道路の延長です。自由に商品をごらんいただき、気に入ったら買ってください」 昭和30年2月末のことである。玄関口に張り出された細川紙が上州路から日向山を越えて小川の町に吹きおろしてくる空っ風に揺れているのを、恒俊はじっと見つめていた。 「果たして、店の前を通っていくひとたちに、自分の思いがうまく伝わるだろうか?」
セルフサービスの考え方を実践する
島村呉服店の若い店主は、努力家で勉強家だった。そして、学んだことはすぐに実行に移さないと気がすまない性分でもあった。田舎町の小川にあって、東京の雑誌社が主催する「商店経営研究会」に、この若い商店主は熱心に出かけて行った。
終戦から昭和25年まで、日本は統制経済下にあった。ぜいたく品の着物は、仕入れが思うようにできなかった。しばらくは父親の実家から農地を借りて、どうにか農作業で糊口をしのいできた。だから、いまは商売が楽しくてしかたがなかった。
そして、新しい知識を吸収できる勉強会に参加できることが、なによりもうれしかった。商業界の倉本長治主幹、主任講師の神保民八や岡田徹が登壇する「経営研究会(ゼミナール)」では、志を同じくする仲間に出会うことができた。それが良い刺激になった。
商業界が主催する「第10回箱根セミナー」(昭和30年2月11日~14日、箱根湯本)から帰った恒俊は、講師の倉本長冶主幹から教わったばかりのセルフサービスの考え方をさっそく実践してみたいと思った。入り口に張り紙をしたのは、よけいな接客はしないという宣言である。そのことで、前の晩は母親のトメとはげしい口論になった。
「呉服は高額な商品だよ。恒俊が言うようなセルフサービスには無理があると思う。お客さんと話をしないとなると、帯でも着物でも簡単に売れるわけがないでしょう」
母親の主張にはもっともなところがあったが、一度言い出したら絶対にあとには引かないのが恒俊の性格だった。
「母さん、呉服は回転が悪いから、計算してみれば結局は大してもうかっていないはずだよ。だから、接客が必要な呉服の扱いは減らして、お客さんに自由に商品を選んでもらえるように店に変えていきたいと思うんだ」
日本橋の綿布問屋奉公が振り出し
しまむらの創業者、島村恒俊オーナーは、大正15年3月8日に小川町で生まれた。昭和の年号と数え年で同じだから、今年で満82歳になる。5人兄弟の末子で、父親の喜一は本田(現在の深谷市川本町)の農家の生まれ、母親のトメは飯能の出身である。
昭和6年に小川町小学校に入学。小川高等小学校を2年で卒業した恒俊は、日本橋の綿布問屋に奉公に出された。やや口が重たいところはあったが、利発な子供だったので、学校の成績は悪くはなかった。
「先日、倉庫を整理していたら、このひとのむかしの通信簿が出てきましてね。本人は恥ずかしがり屋だから、家族にも黙っていたみたいですが。ずいぶんと成績はよろしかったみたいですよ」。
平成6年に再婚した奥さんの千代子さんは、「書き取りが得意で、記憶力も抜群だったみたいですね」と笑いながら話してくれた。本人はもっと上までいって勉強したいと思ったが、商家の末子が中学に進学することは時代が許さなかった。
小学生の恒俊は、毎朝6時に起床、自分で店を開けていた。病弱だった父親の喜一は、独立してすぐに病に臥せていた。6歳上には長男の敏治(としじ)がいたが、熊谷商業を卒業して京都の呉服屋に修業に出ていた。その下は3人姉妹だったから、末子の恒俊が母親を助けて島村呉服店の商売を守っていたことになる。
店内の陳列台を直して、店の前を掃き清めてから商家の一日ははじまる。両親が商売で苦労しているのを見ていたので、大きくなったら島村呉服店をもっと良い店にすることが夢だった。
終戦、やっと、好きな商売に戻れる
単身上京したのは14歳のときである。日本橋の綿布問屋で小僧をしていたときに、雑誌『商店界』に出会った。倉本長治の署名記事を読んで、米国の流通業界のトレンドなどに興味を持った。戦前戦後を通して、商業者としての恒俊に大きな影響を与えた倉本は、商店界に記事を執筆するからわら、東京牛込商業学校の夜間部で教鞭を執っていた。
昭和8年に倉本が若い商業者に向けて執筆した『商店実務教科書』(富山房)は、恒俊が上京するころには3回目の版を重ねていた。教科書の最初のページに記されている小売商の定義で、恒俊の商人としての考えが確認できる。
「小売商は顧客のために購買代理人たるの役目を持つもの」と定義され、「商店経営は顧客本位に行うことによってのみ、その目的を達することができる」(倉本初夫『倉本長治:昭和の石田梅岩と言われた男』商業界、2005年、45頁)。
上京して2年半後には、奉公先の綿布問屋も戦争の影響で商売ができなくなった。昭和18年に徴用を受け、横浜の軍需工場「大日本兵器」で働くことになる。終戦の年には、徴兵されて川越小学校で軍事訓練を受けていた。昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して戦争は終わった。恒俊は、玉音放送を聴きながら正直な気持ちで思った。
「やっと、好きな商売に戻れる」。
呉服店から総合衣料品店に
はにかみ屋の恒俊は、子供のときから人と話すのが苦手だった。人間の心の中に飛び込まないと成り立たない接客販売に、自分は向いていないと思っていた。その一方で、商売は大好きだったから、兄姉の代わりに店番をしたり、商品の陳列を直したりするのは苦痛ではなかった。店の手伝いを喜んでする不思議な子供だった。
他方で、世間話をしていても、それなりに商売がなりたってしまう呉服の販売には少なからず疑問を感じていた。お客さんの立場に立てば、小さい店舗の場合ではとりわけ、お客さんはもっと自由に商品を見たり選んだりしたいはずである。なるべく話しかけないようにしたほうがよいと考えていた。店の前に張り紙をしていたのも、押し付けではなく、商品そのものの価値で売りたかったからである。
熊谷のアリスクリーム屋「富士屋乳業」から嫁いで来ていた前妻の美智子(平成2年に逝去)は、母親のトメと同様に、ひとの気をそらさない性格だった。話も面白かったので、呉服の販売には向いていた。夫婦仲はよかったが、こと商売については恒俊と美智子の意見が一致しないことが多かった。ただし、「商品回転率を基準に品揃えを考えるべきである」という点について、商売を理詰めで考える恒俊には、母親にも妻にも妥協する気持ちはなかった。
長男の裕之(昭和28年生まれ)につづいて、昭和32年には長女の有美が誕生。その2年後には、次男の禎宏が生まれた。美智子は子育てが忙しくなり、呉服の商売からは離れざるを得なくなった。昭和30年ごろから、島村呉服店の商売は、既製品、婦人ブラウスから寝具まで、総合的な品揃えに変わっていった。店舗運営を完全なセルフに切り変えたのは、それから2年後の昭和32年のことである。
「わたしは不器用な人間でした。押し売りをするのは苦手だったんです。セルフサービスで洋服の販売をはじめて、本当に楽になったと思いましたね」。