昭和36年5月 東松山市材木町2丁目 (旧)東松山店は、しまむらがチェーン展開をはじめてからの実質的な1号店である。前年の12月に出店を決めてから、賃借料の交渉、建物の設計、店舗の内外装が確定するまで、とんとん拍子で出店の準備は進んだ。敷地面積が50坪、売場面積は36坪、2階部分は、事務所スペースに決まっていた。
5月の前半には建物が完成し、入梅の前にどうにか開店にこぎつけることができた。店名は、ひらがなの「しまむら」を採用した。小川町の店でも、セルフサービス方式の総合衣料品店に業態を転換してからは、店の看板を「しまむら」としていたからである。
東松山店の開店の日、恒俊は父の喜一を開店祝いに呼んだ。晴れがましい場所に、72歳の父親は出てくるのをためらったが、恒俊には特別な思いがあった。それは、8年前のある日、病気がちだった父親が恒俊を呼んで伝えたことと無縁ではなかった。
「今日から、恒俊に商売をすべて任せることにする。これからは、おまえがいいと思う通りに、1人で店をやっていきなさい」。
父親のその言葉は、恒俊にとってはやや意外だった。足腰が弱っているとはいえ、父親はまだ64歳である。老舗の呉服店で番頭を務めて36年、その後に自分で店をはじめてから、その日までさらに18年間。喜一には自分なりの商売のやり方があったはずである。
母親のトメも元気だった。昭和27年までは、両親と息子の恒俊とはしばしば店の運営や仕入の仕方について意見がぶつかっていた。敗戦の翌日(昭和20年8月16日)に、長男の敏治を腸チフスで失っていた両親は、一人息子になってしまった恒俊に期待するところが大きかったからだ。だからこそ、商売のやり方を恒俊に教えることについては厳しかった。
社長の定年は64歳?
引退を宣言したその日から、喜一は恒俊の商売に一度も口をさしはさむことがなかった。その年の秋に、島村呉服店を株式会社に組織変更したときにも、父親の喜一は息子に何も言わなかった。それゆえ、恒俊は、東松山の新店を父親の喜一に一番先に見て欲しかった。
立派に完成した東松山店の建物を見た父親は、満足そうに店の様子を眺めていた。体が弱っているせいか、2階の事務所には上がりたがらなかった。新築したばかりの店内は木の香りと、入荷したばかりの商品の繊維から放たれるつんとする匂いが漂っていた。その中にすこしだけ身をおいたあと、喜一はすぐに小川の町に帰りたがった。最初の客が店で買い物をするのを見て、母親のトメに手を引かれて東松山の駅に向った。
恒俊はだんだんと遠ざかって小さくなっていく父親の背中を、複雑な思いで見つめていた。松山の商店街から姿が見えなくなるまで、喜一はとうとう一度も後ろを振り返ることがなかった。恒俊は、その後の自分の生き方とそのときの父親の後ろ姿をときどき重ね合わせて考えることがある。
「自分は父親に性格が似ていると思いますね。一度決めたら、その後に何が起ころうとうしろを振り返らない。あまりこだわらない性格なのですよ」。
小川の町は相場の町である。横須賀市出身の藤原秀次郎現しまむら会長は、小川町の人間の性格を、「前を見る体質で、失敗したらさっさとやめる。変わり身が早く、くよくよしない」と特徴づけている。
恒俊本人にも、そして父親の喜一にも、小川町の遺伝子は受け継がれていたのかもしれない。「チャレンジ精神をよしとして、過去の失敗は問わない」のが、しまむらの社風であるからだ。そして、小川町の血脈は、しまむらの現社員たちにも流れている。
1990年、島村恒俊は、後継社長に現会長の藤原秀次郎氏を指名した。自らが経営の第一線を退いたのは、父親の喜一が息子にその後を託した同じ年齢の64歳であった。会長職の在籍期間は2年。相談役に退いたあとは、藤原会長が年に2回、側近とともに埼玉県吉見町にある島村オーナー宅を訪れている。会社の現況について報告を受けることはあっても、オーナーが会社の事業方針の細部に対して口をさしはさんだことは一度もない。
「社長時代から、とにかく社員を信頼してすべて任せてくれる人なのです」。
藤原会長の言葉である。2005年5月、藤原秀次郎会長が野中正人氏(当時44歳)に次期社長の座を託したのも、先代、先々代と同じ年齢の64歳のときである。しまむらの内規では、社長の定年が64歳になっている。偶然とは思えない。
小川町店と同じ品ぞろえにして大ブレークところで、小売業の成功は、最初に店を出した場所に依存するところが大きい。1号店が利益を生む金の卵になれれば、2店舗目以降の出店は財務的にとても楽になる。旧東松山店は、その意味では、草創期のしまむらにとって願ってもない好立地だった。
東松山駅から歩いて5分、直線距離で約500メートル。駅からの道は狭いながら、店前の通りは、そのまま市役所に続いている。人通りの多い市役所通りの交差点には、「市役所入り口」の標識が掲げられている。しまむら東松山店の左隣は、武蔵野銀行の東松山支店。その4軒先には、川越に本社がある丸広百貨店の東松山支店があった。
恒俊が東松山への出店を考えたのは、東松山市の地理的な位置とその成長性にあった。昭和28年に早くも市制が敷かれた東松山市は、戦前から首都圏近郊の地方工業都市として栄えてきた。自動車や航空産業など部品工業の集積があったので、人口も急増していた。東武東上線の池袋駅から、急行で約50分。首都圏のベッドタウンとして、東京へ通うビジネスマンの通勤圏内に入っていた。
しまむらが東松山に出店した翌年の昭和37年には、松山市の人口が4万人を突破した。東松山市の人口規模、所得の成長性、商店街内での立地、どれをみても、しまむら東松山店は、繁盛店になりうる条件がすべて揃っていた。
開店の日には、チラシの効果でたくさんの客がしまむらに来店した。ところが、その後 しばらくは、材木町の通りに長蛇の列ができたわけではなかった。むしろ初年度は、小川町の本店に売り負けていたくらいだった。
女子事務員の中で先頭に立って働いていた伊藤孝子や、男子従業員のリーダー格だった小山岩男などと一緒に、恒俊はその理由を考えてみた。
東松山の町は、小川町よりは人口規模が2倍近く大きい。純然たる田舎町ではなく、住んでいる人間の半分は、池袋や川越、大宮などに通う勤め人である。懐具合もすこしはよいはずである。調べてみれば、所得水準も高かった他。来店客の服装センスも悪くはない。
初年度は、それを見越して、小川町のしまむら本店で販売している商品よりは、デザインも品質もすこしだけ良いものを置いてみた。しかし、少し気張ったつもりの商品がぜんぜん売れていないことがはっきりしてきた。
年が明けた翌年の正月からは、小川町と同じものを置いてみた。チラシの作り方も仕入れる商品も、小川町の店と同じにしてみた。わずかな違いのように見えたが、顧客は正直だった。うそのように商品が売れはじめたのである。
しまむらが売出しをやると、10時開店前には、店の前には長蛇の列ができた。4件先の丸広百貨店の前まで、入店したい客の待ち行列が続いた。
「島村さん、なんとかしてくださいよ。行列で店の前がふさがって、客が店に入れないですよ」。
1軒おいて隣りのお菓子の清月堂からは、チラシを配って売り出しをやるたびに、クレームがきた。混雑して収拾がつかなくなることもしばしばだったが、恒俊にとっては貴重な教訓だった。
「見てくれを気にして、何も気張ることはない。安くて品揃えがいいと売れるのは、どこでも同じ」。
商売がうまく回りはじめたそのときに、続いて幸運が舞い込んできた。隣接地の武蔵野銀行東松山支店が、交差点の筋向かいに移転することになった。跡地の100坪を島村に買ってくれないかとの申し出である。不動産を購入する条件として、1000万円を融資してくれるという。願ってもない話であった。