(前号までのあらすじ)
昭和44年、小川駅前に新店の用地を取得したヤオコーは、梅澤理事長の尽力で小川信用金庫から5千数百万円の融資を受けることができた。近代的な食品スーパーとしてスタートラインに立ったスーパー八百幸(当時は、漢字の社名)は、小川ショッピングセンター(SC)の開店に向けて着々と準備を進めていた。
昭和47年4月25日、小川町駅前SC
開店の日は、雲ひとつない晴天になった。「お誕生日、おめでとうございます!」。
出掛けに、本店(旧1号店)の店番をしていた新妻の光世(当時、25歳)から、幸夫はお祝いの言葉をかけられた。開店の日が自分の30歳の誕生日と重なっていたことを、幸夫はすっかり忘れていた。
3月10日に光世との結婚披露宴が終わってから、幸夫は小川SCの開店に向けて休む暇もなく働いていた。誕生日どころではなかった。
本店の2階を改装して一緒に住み始めた光世とも、開店の朝までゆっくり話す余裕がなかったほどである。
小川駅前の用地(600坪)は、土地の係争問題があって、建物の建設が難航を極めていた。しかし、用地取得から3年後に、どうにか開店にこぎつけることができた。自らが開発を手がけた物件だったので、幸夫にとっても感慨が深かった。
売り場面積は150坪。小さい店のつくりながら、ホワイトボールの光が反射するお洒落な内装に仕上がった。最初の関西への視察後も、幸夫たちは関西スーパーマーケットに何度も足を運び、売場のレイアウト、商品の陳列方法、内外装の設計について学んでいた。
旧店舗をスーパーに転換した後でも、トモと幸夫は、とくに精肉の職人たちの扱いにはずいぶんと悩まされていた。全商品のプレパッケージ化と完全セルフサービスでの営業は、2人にとっては長年の悲願成就だった。
店のファザードの看板は、米国の食品スーパーに模して、横書きで「SUPER YAOKO」とした。取引先や同業社、小川町の名士たちからは、「祝、八百幸、小川ショッピングセンター」と垂れ幕に筆で書かれた大きな花輪が贈られた。
開店の日は、朝早くから店の前に長蛇の列ができた。開店と同時に、店内は立錐の余地がないほどの混雑になった。白い割烹着を着た主婦たちが、レジの前に買い物かごを抱えて並んだ。レジ横のエンドには、特売商品のバナナが、山積みにされていた。
夕方の閉店時間まで、人の波が引きも切らなかった。清三・志げの社長夫婦は、押し寄せる客の流れを見て満足げな様子だった、幸夫とトモは、思わず手をとりあって喜びをかみしめた。
幸夫が修行で1年半お世話になったマルエツの高橋八太郎社長(当時)が、わざわざ浦和からお祝いに駆けつけてくれた。開店のセレモニーでは、40人に増えた従業員の前で、激励の挨拶をしてくれた。
次男清巳が入社
しかしながら、トモと幸夫の親子が、本当に食品スーパーとしての成功を確信したのは、同年12月の長瀬店〈3号店〉の開店の後だった。昭和47年の小川SCと長瀬店の開店によって、八百幸商店は、前年の3億2000万円から一挙に年商8億2000万円の会社になった。
3店舗体制になった時点で、トモは専務に昇格した。借り入れも少なくはなかったが、関東圏で先行していたマルエツやマルヤ、与野フードを追撃できる体制がようやく整いつつあった。
同年、成蹊大学を卒業した次男の清巳(ヤオコー現社長、当時25歳)が、八百幸商店に入社した。学生時代に、関連会社の川野商亊でガソリンスタンドの経営を任されていたが、小川SCの開店と同時に、食品スーパーの仕事を手伝うようになった。
昭和48年4月27日、嵐山店(新2号店)を移設した際に、若い清巳が開店店長を務めることになった。不便な立地で苦戦していた嵐山店は、移転と同時に店長に就任した清巳店長のおかげで、初年度から黒字に転換した。その後も、清巳社長は、商品部と店舗営業部の統括責任者を歴任することになる。滑り出しの嵐山店から、現場を動かす才能が開花することになったわけである。
昭和49年3月に、八百幸商店は株式会社「ヤオコー」に社名を変更した。義父の清三は、トモを呼んで言った。「そろそろ社長の座をあなたに譲るよ」。同年の10月に、トモは社長に就任した。トモは思った。
「これで、自分の実印を使って、自分の実力が試せる。(清三)会長は黙って見ていてくれるし、店ができるたびに喜んでくれる。長い間の苦労が報われた」。
犬竹一浩は転職で
昭和49年4月19日、犬竹一浩店長の32歳の誕生日は、ヤオコー4号店(吹上店)の開店日と重なっていた。偶然だった。同じ年齢で誕生日が6日ちがいの義弟、川野幸夫の誕生日も、小川SCの開業日(4月25日)に当たっていた。
一浩は、昭和48年12月初旬にヤオコーに入社していた。入社前の9年間は、三共製薬に勤務していた。大阪勤務が6年、東京勤務は3年だった。犬竹家は土地持ちの資産家だったので、本人としては、将来は実家に戻って、薬局、ガソリンスタンド、レストラン、ゴルフ練習場を経営したいと思っていた。
妹の光世が川野家に嫁いだころのことである。当時、田無にあった会社の寮から、休みの日に実家に帰ると、義弟の幸夫が実家のソファーでしばしば横になっていた。
従業員や母親の視線から逃れて、妻の実家に来て安心していたからなのだろう。こんこんと眠っている幸夫の姿を見て、「小売業の仕事はほんとうにたいへんだなあ」と思ったものである。
そう感じた自分が、幸夫に請われて、光世が川野家に嫁いだ翌年の12月1日から、長瀬店の店長見習いとしてヤオコーで働くことになった。別にやりたいこともあったので、はじめは、ほんの2、3年の腰掛けのつもりだった。
このひとの商売はすごい!
その日、犬竹一浩は、義母のトモと久保田博治部長を乗せて、吹上店の開店準備のために車を運転していた。久保田部長は、昭和45年に東松山の職業安定所から八百幸に入社し、従業員の採用で苦労していたトモを助けていた。
目の前で、高崎線の踏み切りの遮断機が下りた。一浩たちの前には車が3台、後ろには2台、つながっていた。遮断機が下りるやいなや、着物姿のトモが車から降りて、停っている前の車につかつかと歩み寄った。
一浩は何が起こったのかわからなかった。トモは、前の車の窓ガラスをこんこんとノックした。窓から顔をのぞかせた相手に向って、トモは頭を下げてやおらあいさつを始めた。
「ヤオコーでございます。今度、4月19日に吹上に新しい店を開店します。よろしくお願いします」。
あいさつは、前の車だけでは終わらなかった。トモは2台前の車にもあいさつをした。踏み切りの直前に止まっている3台目が終わると、一浩たちの後ろの車に回った。そのとき、列車が通り過ぎて遮断機が上がった。さすがに、2台後の車にはあいさつができなかった。
この間、わずか2、3分。一浩は、義母の姿を見て驚愕した。相手は、見ず知らずの他人である。にもかかわらず、すばやく自然にあいさつを続けるトモの振る舞いは見事だった。
「お母さん、いつでもそうしてあいさつをするのですか?」
トモはにこりと笑って、一浩に応えた。「一浩さんや、そうですよ。時間がある限りはね。八百幸の名前を覚えてもらうためです」。
こんな風にお客さんに接していれば、近所の間ではまちがいなく話題になる。「ヤオコーいうスーパーが開店するらしい。きれいな女性社長の会社みたいよ」。
ヤオコーの名前は口伝えで広まっていく。一浩も三共製薬時代には、年間2億円を売るトップセールスマンだったが、「このひとの商売はすごい!」と思ったものである。
「縁があって幸夫と清巳の二人とは兄弟になった。この母と2人を支えて、ヤオコーを立派な会社に育てていこう」。
このとき、一浩は番頭になる決心した。「のめっこく(気楽に)話せる仲」(小川地方の方言)の3人が、ヤオコーを大きく成長させる30年の始まりであった。