第6 回「仕組みをつくって、仕事を任せる」『チェーンストアエイジ』2008年11月15日号

 昭和42年12月、小川赤十字病院「島村さん、症状からみてやはり十二指腸潰瘍ですね。切除することにしますか?」若い内科医の見立ては、かかりつけの医者と同じだった。過労とストレスによる十二指腸潰瘍。妻の美智子も、隣で心配そうに医師の問診と精密検査の結果を聞いていた。島村恒俊、42歳の厄年_。12月18日の夕刻のことである。


数年前に開店した3店舗はすべて業績が好調だった。妻とかわいい3人の子供たちにも恵まれていた。仕事も家庭も順風満帆。しかし、「好事魔多し」のたとえの通りである。
 前日は、いつものように帰りが遅くなった。愛車の初代日産ダットサンを運転して鴻巣から東松山の店に向う途中、調子よくハンドルを切ったところで、鳩尾(みぞおち)の辺りがきりりと痛んだ。その痛みは、小川町の自宅に戻るまで消えなかった。
超繁盛店を3店舗も抱えて、毎日のように車で店舗間を巡回しなければならない。東松山店の売場を広げてからは、渥美俊一氏のチェーンストア理論にしたがって、本部集中の仕入制度を導入していた。店舗運営は現場に任せていたが、仕入れと販売促進はすべて恒俊が負っていた。抱え込んだ仕事が予定どおりにこなせない。忙しすぎて生活は不規則になる。
 その夜も遅い夕食をとって、布団にもぐりこんだ。空腹を満たすと一時は鈍痛が収まったかにみえたが、夜中にふたたび痛みが激しくなった。トイレに用足しに行くと、便の色が真っ黒だった。海苔状のタール便は、胃潰瘍か十二指腸潰瘍の兆候である。
翌朝、痛みをこらえて、とりあえずかかりつけの町医者に診てもらった。
 「恒俊さん、十二指腸潰瘍だね。切らないといけなくなっているよ。日赤病院で詳しく診てもらったほうがいいね」。
 その医者の紹介で、その日のうちに日赤病院に転院することになった。
クレゾールの匂いが漂っている診察室で検査を受けている間に、胃潰瘍で腹部を切開した友人から、「切ったら3年は寿命が縮むから」と言われたことを思い出していた。往生際が悪いとは思ったが、意を決してその医師にたずねてみた。
 「先生、切らずに潰瘍を治せる方法はありませんか?」。
 「食事療法という手もあるにはあります。点滴をしながら、絶食一週間ですね」
こんなピンチは生まれて初めてだった。病院のベッドの上で、恒俊はこの難局をどうやって乗り切ろうかと考えていた。自分がいなくなると、明日からしまむらは商売が動かなくなる。十二指腸を切除したら、体力が落ちてしまう。しばらくは仕事に復帰できない。
 「先生、どちらにせよ、潰瘍が治るかどうかは経過を見ないとわからないのでしょう。切らないで1週間、点滴で絶食するほうを選ばせてもらいます」。

 毎日が目の回るほどの忙しさ
 旧東松山店は、開店の翌年に隣接地を武蔵野銀行の東松山支店から譲り受け、売り場面積が150坪になっていた。日販が50万~100万円、年商で約2億円。商品も商売のやり方も、時代のニーズにぴったりと合ったのだろう。仕入れた商品は右から左におもしろいように売れていた。
しまむらの評判を聞きつけて、八木橋百貨店(本社:埼玉県熊谷市)の八木橋社長が、ある日、東松山店を視察に訪れた。
「島村さん、もっと商品をていねいに扱わないとだめだよ」。
特別に親しくしてもらっていたわけではないが、来店時に八木橋社長からそんな意見を頂戴した。うれしかった。
 「従業員が商品の上に乗っかって働いているのを見て、八木橋社長が苦言を呈してくださったのだと思います」。
 指摘はありがたかったが、商売が雑なのを見られて、恥ずかしい気持ちもあった。
翌年(昭和38年)、鴻巣店(2号店)を開店。売場面積は約100坪。その翌年には、小川町の駅前に100坪の店(3号店)を構えることになる。
 旧小川店(現在は学習塾)は、その後に自らが店長になる伊藤孝子が、駅前の不動産で見つけてきた物件だった。東京オリンピックが開催された年である。日本は高度経済成長期に突入していた。本町通り(旧国道254号線)の島村呉服店前は、寄居方面に向うトラックが増えて、人が通りを横切ることさえ危険な状態だった。本店の移転は、恒俊にとっても緊急の課題だったのである。
 「東松山と鴻巣が良く売れていたので、資金は潤沢にありました。朝方、孝ちゃんが持ち込んできた物件が気に入ったので、その日のうちに即金で購入しましたよ」。
昭和42年の暮れ、恒俊オーナーが十二指腸潰瘍で入院したとき、しまむら全3店舗の売上高は6億円を超えていた。しかし、とにかく毎日が目の回る忙しさだった。
 「あちこち動き回らなくていけなかいったのが、心底しんどかったです。もう一度やれといわれても、同じことは二度とできないな」。

 仕組みの重要性を認識する
 1週間の断食は辛かった。それでも、病院から早く抜け出したい一心の恒俊は、医師や看護師の指示に忠実にしたがった。本心では、商売のことが心配で気が気ではなかったが、潰瘍は仕事上のストレスが原因であることもわかっていた。
 病室に付き添っていた妻の美智子は、商売に関する情報をできるだけ遮断するよう、医師たちに協力していた。絶食が解けて食事が重湯になったところで、胃の痛みは完全に消えていた。十二指腸潰瘍は、やはりストレスと過労が原因だったらしい。
年が明けると、従業員らの病気見舞いが許された。恒俊としては、年末の売上が気がかりだった。本当はたずねてみたかったのだが、美智子は営業上の数値を恒俊には教えないようにと孝子たちに指示していた。
 翌年の1月11日に、恒俊は無事に退院できた。日赤病院の玄関を出るとき、恒俊はもう二度と病気でこんな惨めな思いはしたくないと思った。酒を控えるようにして、仕事が始まる前に、健康のために長い距離を走り始めたのもこのころからである。
久しぶりで東松山の本部に戻って、3店舗の売上数値を見てみた。うれしかった半面、愕然としたことも事実だった。自分がいなくても、年末年始にはまったく売り上げが落ちていなかったのである。もともと商品の仕入れは、伊藤孝子や小山岩男に任せた時期もあった。店長の仕事も、自分が不在の間は女性従業員たちが一部、その役割を受け持ってくれていた。この間は、男性社員たちも一生懸命に働いてくれていた。
 「(自分がいなくても)システムさえできあがっていれば、性別に関係がなく、たいていの仕事はこなせるものなのだ」。
それが恒俊の実感だった。恒俊オーナーの入院は、しまむらが女性を積極的に登用するようになるきっかけを与えてくれたのかもしれない。
 「偶然だったのですよ。仕入を本部集中制に代えておいて、3店舗をまとめておいたことも幸いしました」。
 島村オーナーと話していると、「60点主義にして、80点を狙わせる」とか「公平無私の処遇」という言葉が頻繁に飛び出してくる。
 そういえば、イタモト洋服店の島田茂氏は、しまむら東松山店の1軒置いて隣に、イタモト洋服店の2号店を出店した。その後の業績を見ると、ほぼ同じ立地にもかかわらず、イタモト洋服店はしまむらのようには繁盛していない。
 「自分は東松山店を出すとき、店長として弟を連れて行きましたよ。島村のやり方がさすがだと思うのは、一貫して従業員を店長にしていたことだね。とかく親戚筋を重く用いたがるもんだんけど、島村のやつにはその考えはこれっぽっちもなかったね」。
 島田茂の島村恒俊評である。仕組みをつくって、それを動かせる人間を発掘してくる。
 競わせながらも、徹底的にひとを信頼して仕事を任せる。だから、3店舗のころから、力がある従業員には費用を惜しまず教育投資してきた。これはと思う従業員は、金に余裕がないときでも、ペガサスクラブや船井総研などの経営セミナーに派遣していたのである。