(前号までのあらすじ)
昭和51年、リクルートブックを利用して大卒1期生7人の採用に成功したヤオコーは、5号店までは開店初年度から黒字が続いていた。しまむらも、大手量販との戦いで苦戦はしていたが、フリースタンディング立地に出店した寄居店(4号店)などが寄与して、業績を順調に伸ばしていた。昭和50年の長瀬店から、両社は共同で出店を始めていた
昭和54年4月、児玉ショッピングセンター
「滝沢さん、ガラスクリーナー貸してくださいね。玄関のガラスドア、きれいに掃除しておいてあげますから」。
ヤオコーの滝沢勝雄店長(当時、25歳)に、ボランティアでガラス拭きの掃除を申し出たのは、しまむらの伊藤孝子店長(当時、36歳)である。孝子は、入口のガラスドアの汚れがどうにも気になって仕方がなかった。
児玉ショッピングセンターは、1階がヤオコーで食品売場(250坪)、2階がしまむらで衣料品売場(200坪)である。
「いつもすいませんね。その埋め合わせに、しまむらさんがセールのとき、店長室のマイクをお貸ししますから」。
滝沢は申し訳なさそうに、孝子にガラスクリーナーを手渡した。1階のヤオコー店長室には店内放送用のマイクがあった。孝子は見切り品をアナウンスするために、しばしば滝沢に頼んでマイクを借りていた。ふだんはしまむらに来店しない食料品の買い物客が、孝子のセールの放送で2階まで足を運んでくれる。滝沢店長は、孝子には親切だった。
「いつも売場に出て、一生懸命よく働いているわね。滝沢さんは!」。
商品に気を配って、忙しく動きまわっている若い滝沢店長の姿が、孝子の目には好ましく思われた。
袖すり合う2つの企業
伊藤孝子は、境店(8号店)に異動になった浅見勝店長の後を引き継いで、1年半ほど前から児玉店の店長を務めている。児玉店へ異動になるとき、島村恒俊オーナー(当時、社長、53歳)からは、社員とパート従業員の作業効率を改善するように頼まれていた。6人いた正社員のうち1人を他店に移動させて、全部で15人程いた従業員のシフト管理の調整作業にようやくめどが立ってきたところである。
恒俊オーナーは、週1回、全店を見回りに来ていた。臨店のとき、店内にごみが落ちていたり、陳列台が汚れているのを発見すると、恒俊オーナーは、店の清潔さが会社のレベルを表わしているものだ、と店長に注意を促した。お客様が第一優先だった。
若いころの孝子も、知らずに買い物をしている来店客の前を横切って、「お客さんの前を歩くんじゃない!」と、オーナーに頭をこつんとやられたことがある。社員の洋服の身だしなみについても、オーナーのチェックはきびしかった。
「さっき、シャツのいちばん上のボタンが外れている従業員がいたね。すぐに直させなさい」。
従業員にではなく、店長の孝子に対して社員の服装の乱れを注意した。
今日も午後には、日産のセドリックを運転してオーナーが見回りにやって来る。前もって店をきれいに掃除しておきたかったのである。入口のガラスドアはヤオコーの管轄ではあるが、来店するお客様にとってはしまむらの玄関でもある。「店が汚れている!」と指摘されるのがいやだった。
ヤオコーの川野トモ社長(当時、58歳)も、しばしば運転手を連れて児玉店を見回りにきていた。腰の低い、気配りの人だった。滝沢たちから孝子のことを聞いていたのだろう。トモ社長は、訪店の際にはいつも孝子に声をかけてくれた。
「あなた(孝子)がいるから、この店は大丈夫なんですよね。行き届かないところがあると思いますが、うちの社員をよろしくお願いしますね」。
しまむらの与えた影響
滝沢は、ヤオコーの大卒採用組の第1期生である。入社後すぐの昭和51年5月、児玉店の開店に応援で来ていた。今は、1階にあるヤオコー7号店の店長を務めている。入り口の右側にある階段を上っていくと、2階がしまむらの児玉店である。両社の事務所は別々だったが、休憩室はしまむらと共用だった。
滝沢は、しまむらの店舗と従業員の働きぶりを見ていた。在庫管理が実に徹底していた。自分たちの売場とはちがって、バックルームに在庫をまったく持っていない。商品はすべて売り場に陳列してある。児玉に異動した直後に、2階のしまむらで棚卸があった。作業を見学に行くと、棚卸し前に棚の商品はがらがらになっていた。同じ小売業に働くものとして、意識レベルの違いを痛烈に感じた。伊藤店長には、商売の厳しさを勉強させられた。
昭和51年にヤオコーは、一気に4店舗を開店させた。4月に岡部店(6号店)、5月に児玉店(7号店)、9月に群馬県境店(店番なし)、10月に桜ヶ丘店(8号店、熊谷市)である。翌年の8月には、本庄東店(9号店)を矢継ぎ早に開店させていた。いずれも、大店法の出店規制(<500平米)にかからない150坪タイプの店である。
ところが、昭和51年以降に開店した新しい店は、どの店も日販100~150万円と振るわなかった。とくに境町の店は、予定していた1日200万円の売上が、80万円と低迷を続けていた。赤字を抱え続けるわけにもいかず、翌年には早々と店を閉じることになった。ヤオコーの50周年記念誌に、境店は唯一「店番の無い店」として記録が残されている。
「ヤオコー境店、開店日:昭和51年9月22日、開店店長:田代建雄、閉店日:昭和52年5月31日(『YAOKO MEMORIAL BOOK 50』、56頁)」。
競合のディスカウント型小売スーパーが近くに出店していたため、売上が伸びなかった。境店は、しまむらが土地を購入して、ヤオコーがテナントで入店した唯一の場所だった。両社が最初に共同出店した場所は、長瀬店(ヤオコー3号店、しまむら5号店)だった。昭和49年12月にヤオコーが長瀬店(昭和47年開店)の増床を計画した際に、しまむらが同じ敷地内にテナントとして店舗を構えたのが最初である。
昭和50年以来、しまむら長瀬店もヤオコー長瀬店も売上は良好に推移していた。その後に共同出店したしまむらの店は、児玉の店も含めて比較的業績が好調だった。
若い社員の気持ちをつかむ
ヤオコーは6号店以降、売れない店が続いていた。その上、人材も育っていなかった。大卒で採用した社員が店長を務められるまでには時間がかかる。一挙に店数を増やしていったつけがまわってきていた。滝沢は思った。「人はいない。バックルームがさみしい。職人はまとまらない」。
それでも、そのころに入社した社員たちが何とか働き続けられたのは、川野ファミリーに温かく見守ってもらっていたからである。嵐山店にあったプレハブの会議室で、若い社員たちは、小売業について勉強をさせてもらっていた。講師は、川野幸夫専務(当時、36歳)である。
幸夫専務はしばしば、ヤオコーの「青山寮」に寄宿している男子社員たちを励ましにやってきた。お酒を飲みながら、若い社員たちの考えを聞くためである。
ある日のこと、滝沢たちは幸夫専務と飲む機会があった。その店は、幸夫の計らいでヤオコーの社員は「つけ」がきく店だった。幸夫は若手の代表格だった滝沢にたずねた。
「滝沢、なんでヤオコーには人が来ないんだ?」。
滝沢はとっさに幸夫の問いに応えた。少しアルコールがまわっていたのかもしれない。
「こんな資本金じゃ、いい人が来るわけないですよ、専務」。
当時のヤオコーの資本金は、950万円だった。しばらく滝沢は、酒の席での幸夫との会話を忘れていた。ところが、翌年になって、ヤオコーの資本金が2400万円に増資された。
「そうか、専務は自分たち若い社員の気持ちをわかってくれていたんだ」。
滝沢たち若い社員にとって、ヤオコーは「運命共同体」に変わっていった。