(前号までのあらすじ)
昭和45年春、食品スーパーのマミーマートと組んで、しまむらは東松山駅前ショッピングセンター(SC、1F:食品450坪、2F:衣料品450坪、3F:ボーリング場)をオープンした。共同でSC開発運営会社を設立、小川信用金庫から両社合わせて3億5000万円の借り入れをした。ところが、同年の秋に、イトーヨーカドーが目と鼻の先に出店してきた。
昭和45年9月、東松山駅前SC、2階事務所
藤原秀次郎(現しまむら会長、当時30歳)は、電卓をたたく手を止めた。5月にしまむらに入社してから、財務と総務全般を任されていた。「それにしても、たいへんなことになった。資金がショートしてしまいそうだ」。
春先からの天候不順、冷夏で夏物衣料の販売も不振だった。続いて9月には、イトーヨーカドー(1500坪)が駅前に出店してきた。天候不順と競合店出店のダブルパンチである。東松山店の売上は、20%のダウン。試算してみると、予想以上に9月の資金繰りが厳しくなっていた。
20日締めの支払いが月末にやって来るのだが、このままでは、問屋へ支払う現金が確保できない。就職の面接をしたとき、島村社長は「わが社は現金取引」と言っていたが、現実には売上を担保にした「担保主義の商売」である。わずかの時間差で米びつが底をついてしまいそうだった。
藤原は、東松山店の2階事務所にいる島村恒俊オーナー(45歳)に、資金繰り試算表を見せて確認をとった。
「島村さん、現金が底をつきそうです。月末に問屋への支払いができなくなります」。
前もって事態を予想していたのだろう。恒俊オーナーは少しもあわてず、藤原の問いに静かに応えた。
「藤原さん、どのくらいの現金が不足するのですか?」
「だいたい3,4日分の売上相当額です」。
問屋への支払いができなくなるのは、恒俊が父親から商売を引き継いでから、はじめてのことだった。
「今月は問屋に頭を下げるしかないだろうな。5日間だけ待ってもらうことにしようか」。
仕入先の上位4,5社の社長たちの顔が頭にちらついた。恒俊は小学校を卒業してからしばらく、日本橋の問屋で小僧をしていたことがある。問屋の支払いがどんなに厳しいものかよく承知している。生来の律儀さから、販売が不調なときでも、毎月の支払いだけはきちんとしてきたつもりだった。
しかし、今回だけは、不本意ながら、問屋に頭下げて支払いを先に延ばしてもらうしかないだろう。恒俊は覚悟を決めて、日本橋の問屋街に向うことにした。
銀行との付き合いを変えていた
現金が底をついているわけだから、もはや選択の余地はない。仕入れが大きな問屋を3軒回って、恒俊は頭を下げて歩いた。会ってくれた社長たちは、支払いを5日間だけ猶予してくれることを承諾してくれた。申しわけなさで、恒俊の胸は痛んだ。9月の支払いを繰り延べしてもらって、当面の苦境はどうか凌ぐことができた。10月に入ってからも、状況が好転したわけではなかった。しかし、店舗開発からバイヤーに戻っていた広瀬義征(現、ロッキー副社長)らの進言を容れて、商品の値下げなどで売り上げをつくり資金をどうにかつないでいた。流動比率80%で、綱渡りの経営がしばらくは続いていた。
黙って手をこまねいているわけにはいかない。恒俊は、競合店の売場を調べて歩いた。食品売場に立って両社を比べてみると、マミーマートとイトーヨーカドーの間では、来店客数に3倍の開きがあった。売り場に立って観察していると、買物客は食品売場から2階の衣料品売場のほうに流れてくる。そうでなくとも不利なところに来て、しまむらとイトーヨーカドーとの戦いは、はじめから1対3のハンディ戦である。
それでも、暮れの11,12月にかけて、ようやく商品が動きはじめた。イトーヨーカドーの出店後に一時的に移ってしまった客の一部が、圧倒的な商品の値段差を見て、しまむらに戻ってきたようだった。
余裕が出てきた間に、支払いの時間差を埋める算段をしなければならない。1月に入ると、季節的にまた売上が落ちていくことはわかっている。恒俊は藤原と相談して、メーンバンクの武蔵野銀行と小川信用金庫に借金を申し入れることを考えた。恒俊は苦笑いをしながら、藤原に話しかけたものである。
「銀行は、晴天のときには傘を差し出してくれるのに、土砂降りのときはなかなか傘を貸してくれないものだよな」。
藤原が担当になってから、しまむらは銀行との取引の仕方を変えている。たとえ無借金経営であっても、年に1,2回は運転資金を借りる。それも複数の銀行から借りる。ただし、借り方には差をつける。それは、会社として常に情報を出すためでもあった。
高い授業料を払った幻の4号店
東松山店の移転から寄居4号店(昭和47年)まで、しまむらの公式的な記録によれば、2年間は出店がなかったことになっている。しかし、昭和46年から半年間だけ「幻の4号店(深谷店)」が存在している。
その後に、イトーヨーカドー深谷店のオーナーになる地元の有力者が、当時は、深谷の駅前で食品スーパー(SM)を経営していた。そのSMの2階フロアに、しまむらは出店を勧められた。SMのオーナーが恒俊に提示してきた家賃が、相場から見て破格に安かった。
恒俊オーナーの気持ちが、安い家賃につられて、つい動いてしまった。その店の近くに、手ごわい競争相手のキンカ堂深谷店があることを知っての出店だった。店舗そのものも、駅前からは少し離れた場所にあって、立地も決してよくなかった。家賃が安いはずである。
店を出してはみたものの、結果は惨憺たるものだった。保証金の1000万円を、その後の10年間は塩漬けにしたまま、半年後には撤退をすることになった。それでも、撤収の決定が早かったので、最終的に失敗の傷は浅かった。
高い授業料を支払ったことになる。どうせ一緒に組むのなら、顧客吸引力のある強いSMと組むべきだった。競合店の状況をきちんと調べないで、安い家賃につられて出店したのはまずかった。幻の4号店(深谷店)での失敗体験は、その後、しまむらが本格的にチェーン展開を始めてから、貴重な教訓として生かされることになる。
昭和47年は、しまむらにとって、実にめまぐるしい年だった。まず、寄居町に単独で出店(4号店)。その直後に、ヤオコーと組んで、長瀬(毛呂山町)に5号店を出した。この店舗は、その2年前にヤオコーが出店していた同じ敷地内で、隣地に平屋で共同出店したものである。毛呂山町にある長瀬店に共同出店するにあたり、島村オーナーは、嵐山町にあったヤオコーの川野トモ元名誉会長の自宅を表敬訪問している。
北本6号店は、SMの三徳(本社:東京都新宿区)との共同出店であった。同年、3階のボーリング場が東松山SCから撤退したので、しまむらがその跡地の3階部分を利用することになった。売場は当初の450坪から900坪に増床された。この年は、キンカ堂が鴻巣店に出店(1500坪)してきた年でもある。競合店への対応上、しまむら鴻巣店は、250坪から800坪に増床され。
しかし、東松山店、鴻巣店ともに、競合店が強い地域では大手流通に対して、しまむらはやや分が悪かった。利益があげられる体質の店舗のかたちはなかなか見えてこなかった。それでも、寄居店など小さな町に単独で出店した店はしだいに業績がよくなってきていた。会社全体としてはしばらく業績は浮上せず、昭和51年に児玉7号店(ヤオコーと共同出店)を出店するまでは、チェーン展開は4年間、一時的に中断することになった。