第11 回「川野幸夫の決断」『チェーンストアエイジ』2009年2月15日号

(前号までのあらすじ) 植木英吉(フレッセイ創業者)の助けを得て、小川町でセルフサービス方式の食品スーパーをはじめた川野トモ(ヤオコー元名誉会長)は、本格的なスーパーマーケットづくりをめざしていた。長男の川野幸夫(現ヤオコー会長)は、昭和37年に、県立浦和高校から東京大学に入学した。


昭和37年12月、東京大学駒場キャンパス
 駒場キャンパスの構内は、この季節、黄色い絨毯を敷き詰めたようになる。イチョウの枯れ葉が木枯らしに舞っていた。通行人に踏みつぶされて異臭を放つ銀杏の果皮を避けるように、幸夫は9号館の講義室に向った。
 914番教室は、思いのほかがらんとしていた。文系学生のために開講される選択必修科目の「統計学」を担当しているのは、林周二助教授(当時、37歳)である。授業はいま始まったばかりだった。黒板に見慣れない数式が並んでいる。テキストは、林周二著『統計学講義』(丸善書店)。「林先生の専門が数学だったとは知らなかった。てっきり経済学の教授とばかり思っていた」。
 11月に中央公論社から発売されたばかりの『流通革命論』は、経済書にしてはめずらしく、大ベストセラーになりかけていた。経済論壇では有名人である。新聞や雑誌にもしばしば登場するのに、教室に座っている受講生はまばらである。
 学期末なので、授業からドロップアウトしてしまった学生も多いのだろう。入学時に登録したいくつかの選択科目の教室番号を、幸夫自身も忘れかけている。うかつだった。統計学を教えている林先生と流通革命論を喧伝している学者が、同一人物だとは端から思わなかった。
 月刊誌『市場と企業』の編集長で、後に「流通経済研究所」を設立する田島義博氏(元学習院大学教授、平成18年逝去)も、日本能率協会から『日本の流通革命』を上梓していた。「流通革命」は、時代のキーワードになっていた。飛ぶ鳥を落とす勢いの若手論客の授業を、せっかく駒場にいるのだから、一度はのぞいてみたいと思っていた。
 「幸夫、林先生の本はもう読んだの?」
 母親のトモからは、林助教授の著書について感想を聞かれていた。
 「僕は法学部志望だから、経済学関係の授業には出てないんだよ」
 いつまでも、生返事を返してばかりもいられなかった。生協の書籍売場で購入した新書版は、開かれずにブックカバーがかけられたままである。

 社会派弁護士をめざす
 川野幸夫(当時、19歳)は、東大教養部の1年生。法学部進学コース・文科Ⅰ類の学生である。社会派弁護士をめざして、浦和高校から一浪して東大に入学した。
 高校時代も幸夫は浦和で下宿生活をしていた。下宿先の本棚に並んでいた「日本文学全集60巻」を、2年もたたずに全部読破してしまうくらい本を読むことが好きだった。不本意にも浪人をしてしまったのは、数学があまり得意ではなかったからである。だから、林助教授の統計学も履修登録をしていなかった。
 母トモと幸夫の親子関係は微妙だった。昭和36年の暮れに、父親の荘輔が癌で亡くなる。その直後に幸夫が東大に提出した入学志願票では、「文科Ⅱ類」(経済学部進学コース)の「2」の欄に○がついているはずだった。
 トモはひそかに、将来は幸夫が自分を助けてスーパーマーケットの経営に参画してくれるものと期待していた。夫亡き後もどうにか気力を保つことができたのは、幸夫が経済学部に進学することが励みになっていたからである。息子と一緒に、店を発展させることを夢見ていた。
 荘輔が亡くなったのは12月16日である。すでに、暮れ・正月用に商品を仕入れてしまっていた。正月用品は縁起物である。葬式を出せば、仕入れた商品を売ることができなくなる。3度目の改装でセルフの売場を90坪に拡張したばかりであった。大量の売れ残りを出してしまえば、せっかく軌道に乗りかけてきたスーパーの経営が危うくなる。
 葬式を出せたのは、1月9日になってからである。暮れも正月も、トモはお客様に対してニコニコ笑って商売を続けていた。荘輔の遺骨は、それまではトモの部屋に置いたままだった。本当に辛かった。

 幸夫、揺れ動く
 無我夢中で働いている母親の姿を見て、幸夫の心は揺れ動いていた。浪人中は「自分は経済学部に進学するつもりだ」とうそをつき通していたからである。東大の入試事務部に郵送した入学志願票では、母親には黙って「文科Ⅰ類」の欄を○で囲んでいた。
 商売人ではなく、社会派の弁護士になりたかった。「自分の性格はあまり商売に向いていない」とも考えていた。中学一年生の清巳(13歳)のほうが、後継者としての商人の適性があるようだった。
 同級生の父母たちが、八百幸に買い物にやって来る。「毎度ありがとうございます」と、誰に対してもぺこぺこ頭をさげている父母を見るのはしんどかった。自分にあんなまねはできない。
 3月中旬、桜が咲く前に合格発表があった。掲示板に自分の名前を見つけたときは、小躍りするくらいにうれしかったが、その先には、母の説得が待ち構えていた。うそをついた自分の行動に、幸夫は後味の悪さを感じていた。とこかで、母親を「裏切ってしまった」という感覚もあった。
 「社会派の弁護士になりたい」という幸夫の気持ちを聞いて、母は納得してくれた。 「自分が選んだ道なのだから、しっかりがんばりなさい」とも言ってくれた。繁盛店とはいえ、将来どうなるかわからない田舎の商店である。弁護士になる道を選んだ息子の気持ちを尊重してくれたのだろう。
 弁護士をめざすことに決めたが、1人で店を切り盛りしている母の姿を見て、幸夫の気持ちはその後も揺れ続けていた。雑誌『商業界』は欠かさず読んでいた。幸夫なりに最新の業界トレンドを母に解説してあげるためである。
 川野家の親戚筋の伯父さんが、キンカ堂(本社:東京都豊島区)を創業した野萩康雄社長と親友だった。その伝で、上野の法華クラブで、藪下雅治先生(商業界講師)の講義を受けたこともあった。そのころ独立してペガサスクラブを始めた渥美俊一氏(日本リテイリングセンター、チーフコンサルタント)の講演も聞いていた。

 教室の一番後ろで、5人掛けの机の端っこに腰を掛けた。授業の内容は、正直よくわからなかった。先生の顔を見るために教室に来たのだから、それはどうでもよかった。授業を聞きながら、中公新書の『流通革命論』を開いてみた。「序文」にはこう書いてあった。

 <わが国の社会は、あらゆる面で跛行性を蔵しているといわれる。(中略)
わたしは予言してよい。「いわゆる流通機構には、近い将来かならず大きな変革が来る。いやこの変革は、すでにはじまっている。この変革が完成した暁には、流通機構そのものの国民経済的意義が変革され、販売の社会的意義がまるで変わったものになるであろう。そしてその変革の意義を自覚したものが栄え、自覚しないものは滅び去るときが近い将来やってくるであろう」と。>

 「もういいかな。母親があんなに苦労しているのだから」
 幸夫は本を閉じて教室を出た。大泉学園の下宿に戻って、林先生の本をきちんと読むことにしよう。流通業界に身を投じて、別のかたちで社会の変革者になるのも悪くはない。