<前号までのあらすじ> 小川地方で一番の繁盛店「八百幸商店」に嫁いできていた川野トモは、ある日、日本NCR(以下、NCR)の営業マンから、前橋でとても繁盛しているセルフサービスの店があることを聞きつけた。単身で松清(現:フレッセイ)本店を訪問したトモは、スーパーマーケットこそが自分たちの生きる道だと直感した。その場でセルフサービス化を熱心に勧めてくれた植木英吉社長は、小川町まで出向いて義理の両親を説得してくれることになった。
昭和33年5月 JR八高線小川町駅
「遠いところ、わざわざ小川の町まで来ていただき、ほんとうにありがとうございます。荷物をお持ちします」。
川野トモ(当時、38歳)は、前橋からJR八高線を乗り継いできてくれた植木英吉(松清本店社長、42歳)を、小川町の駅まで出迎えに来ていた。深く一礼したトモに、英吉はやさしく笑って荷物を手渡した。
トモが前橋の松清本店を訪問してからは、一週間がすぎていた。数日前まで見ず知らずの他人だったトモのために、植木社長がわざわざ時間を作ってくれたことは奇跡のような気がした。駅前通りをまっすぐに歩いて突き当ったところが、町でいちばん繁華な本町通りである。二人は通りの角を左に折れた。
「にぎやかな通りですね。小川は和紙と七夕祭りで有名ですよね」。
「はい、町の人口は2万人すこしですが、周囲の町や村からもお客さんがたくさんいらっしゃいます。先日お伺いした前橋ほどではありませんけれど」。
嵐山町や都幾川村、東秩父村などからの買物客で小川の町は賑わっていた。七夕祭りの日には、隣町の東松山市や川越市などから、毎年5万人近くが本町通りを訪れていた。
「右側の角に見えるのが、八百幸商店になります。入三(いりさん)の屋号の店です」。
「小川地方一の繁盛店だけあって、さすがに立派な店構えですね」。
酷似していた八百幸と松清
夫の荘輔(48歳)と義理の両親、清三(54歳)と志げ(58歳)が、店の前で植木英吉の到着を待ってくれていた。年長の清三が、すこし緊張気味に川野家を代表して植木社長にあいさつをした。
「いらっしゃいませ。遠いところをご苦労様です。今お茶を入れさせますので、どうぞ2階におあがりください」。
当時の商家のほとんどがそうであったように、八百幸商店も1階が店舗で、家族と住み込みの従業員が一緒に2階に住んでいた。志げが英吉を2階に案内しようとしたが、英吉は清三とトモに、とりあえず店の様子を見てみたいと申し出た。
自然な流れで、清三が英吉の案内役を引き受けることになった。トモは荘輔の隣に立って、心配そうにふたりの会話を見守っていた。
「ごらんのように、わたしどもの店は、鮮魚と青果、乾物などを扱う食料品店です。ただし、小売だけでなく、卸売もかねているのが特徴かと思います」。
八百幸の店は開放的で、売場面積が25坪だった。夕刻どきで客が引きも切らなかった。
「繁盛していらっしゃいますね。八百幸さんのご商売は、セルフサービスに変わる前のわたしどもと、店の作りも業務内容もとてもよく似ています」。
植木社長は、荷物の中から松清本店の写真を取り出した。目の前の八百幸商店と改装前の松清の店構えがそっくりだった。鮮魚店だった松清(22坪)は、仕出し業務のウエイトが高かった。年商3000万円のうち、店売りは5、6万円。群馬大学医学部病院や前橋日赤病院などに納品する仕出し料理や加工品の卸売が約半分を占めていた。清三は素直に反応した。
「偶然なのでしょうか。植木社長、わたしども八百幸商店も、小川の日赤病院などの施設に納める鮮魚や乾物の加工品と青果の取扱量が大きいのです」。
トモは松清本店の店舗裏で見た「プリパック」の作業現場を思い出していた。セルフで販売するために、松清の従業員たちは「小分け」と「値付け」の作業に余念がなかった。大きな俵に詰められていた乾物を小分けしたり、一斗缶に入った食用油や砂糖を販売用のビニール袋に詰め替える工程を植木社長は見せてくれた。そのときの英吉の言葉がトモには印象的だった。
「川野さん、群馬は空っ風が強いところでしょう。小分けして袋詰めすると商品にホコリがつかなくなります。やってみてわかったのですが、商品が清潔に保てるのです」。
小分けや加工作業は、八百幸商店がすでにやっていることである。セルフ販売を始めるにあたって、自分たちの経験はきっと役に立つはずである。あとで植木社長に確認してみようと思った。
松清、セルフサービス導入の理由
その日、川野家の2階の奥座敷から聞こえてくる話し声は、夜遅くまで止むことがなかった。説得役の英吉が、清三の質問に答える展開が多かった。トモと義母の志げがときどき会話に加わった。おだやかな性格の荘輔は、じっと皆の会話に耳を傾けていた。
植木英吉は、自分がスーパーを始めるまでの経緯を説明し始めた。
「わたしどもが食品スーパーをはじめたきっかけは、トモさんの場合と同じです。NCRの成沢さんがセールスに来て、東京・青山には紀ノ国屋というアメリカタイプのスーパーがあって、いま大当たりしている。これからはスーパーの時代だと教えてくれたのです」。
松清の前身は、嘉永3年(1850年)創業の海産物・鮮魚小売商「松葉屋」である。戦前に一度傾きかけた松清の立て直しに成功した植木英吉は、当時評判になっていた都内や神奈川県の「セルフサービスの店」を見学した。青山の紀ノ国屋(昭和28年創業)、湘南逗子市の鈴木屋(昭和32年創業)、立川市のいなげや(昭和31年創業)などを、妻の澄枝や若い従業員たちと交代で視察していた。NCRの研究会にも出席して勉強をしていた。
「わたしも一年間ほど思い悩みました。一緒にスーパーを見学した若い従業員たちからは、『社長、そろそろ決断してください!』とせっつかれていたのです」。
清三は、荘輔の横に座っているトモの顔を見た。植木社長は、「セルフサービスの店 松清」の開店前日は、緊張のために一晩中眠れなくなったほどであった。
「かなりの冒険だったのですが、若いひとたちの夢を実現させるために、セルフサービスの店をはじめる決心をしたのです」。
セルフサービスには仲間がいる!
それまで黙っていた義母の志げが、英吉に質問を投げた。
「植木社長さん、前橋市の人口は18万人と伺っています。小川の町は、周辺の町村をあわせても5万人もありません。松清さんのような売上が期待できるかどうかは・・・」。
前橋は人口も多いし、小川町よりは収入の多いお客さんがいて、新しいものに対する感覚も違うだろう。志げが感じた疑問は、英吉も開店前に抱いた不安そのものだった。
セルフサービスの店が都会の青山や逗子で成功したとしても、地方都市の前橋で成り立つものなのかどうか。しかし、英吉が実際に店を開いてみてわかったことは、都会だろうが地方だろうが、食べ物の好みは基本的には同じだということであった。
「地方と都会では多少の違いはあります。でも、よい品を適切な値段できちんとした売り方をすれば、いずれお客様はわたしどものやり方を受け入れてくださるものです」。
一日の来店客は開店前の700人から、いまは1000人に増えていた。お店がきれいになって商品が買いやすくなったことで、客単価も旧店舗の60円から120円に倍増していた。
「大切なことは、仲間がいることです。わたしたち店主だけでセルフサービスの店を作れているわけではないのです。同士やNCRの指導員の方たちがいつもそばにいて、わたしたちの経営を支えてくれています」。
英吉は松清本店の店舗レイアウト(左図)を示した。NCRの奥住正道課長(現、奥住マネジメント研究所代表)の指導チームが、松清の新装開店のために準備してくれた図面であった。英吉は付け加えた。
「わたしが最終的に決断を下せたのは、ひとりの若い従業員の言葉からでした。『社長、もしセルフサービスで失敗したら、今の松清本店に戻り、得意先の訪問、自転車での行商を再開すればよいです。セルフサービスの店を早く開店しましょう』」。
昭和33年2月14日、当時まだ知られていなかったバレンタインに合わせて、主婦から喜ばれるようにと期待を込めて、「セルフサービスの店 松清」はスタートしていた――。