(前号までのあらすじ)
川野トモ(ヤオコー元名誉会長)が店舗を改装して本格的なスーパーマーケット作りを目指したころ、長男の幸夫(現ヤオコー会長)は東大に入学して流通の勉強を始めた。一方、再び、舞台はしまむらに戻る。昭和42年の暮れに、島村恒俊(しまむらの創業者)は過労のために日赤病院に入院したが、伊藤孝子や小山岩男など従業員の頑張りで売上は落ちなかった。3つの店舗ともに順調で、多店舗展開の準備が徐々に整いつつあった。
昭和43年3月、小川町池田
島村呉服店時代からの住み込み店員だった伊藤孝子(当時、25歳)は、池田(現在の小川町角山)に住んでいる実母の大久保よしから、おかしな話を聞いた。
「孝子、しまむらの従業員らしい人たちが大勢、斉藤さんの家に集って何か相談事をしているみたいだよ。まっ昼間からだから、なんか様子がおかしいわね」。
孝子の実家は、JR八高線の踏み切りと小川日赤病院の中間のところにあった。その辺りは通称で「池田」と呼ばれている。瓦屋が多い地区である。母親が言う「斉藤さん」とは、東松山店で仕入れを担当している古参の従業員、斉藤宣士(ひろし)のことである。少し前に、実家の裏手にある土地を購入して、自宅を新築したばかりである。
その話を聞いて、孝子も不審に思った。斉藤は奥さんと2人住まいである。孝子が実家に帰ると、斉藤の奥さんとは挨拶を交わすくらいの仲ではある。しかし、そんな新婚家庭に、昼間から会社の人間が大勢で出入りしているのは不自然なことである。孝子の母は、ときどき小川店に買い物にやってきていた。社歴が長い社員の顔などはよく覚えている。
「母さん、斉藤さんの家に出入りしているのは、社員の誰と誰なの?」
「男の人たちばかりだね。若い人の顔はよくわからないけど、小山(岩男)さんや野原さんの顔なんかはよく見かけるね」。
野原は東松山店の店長である。小山や斉藤、野原たち男子社員の間で何かが起こっているらしい。中学校を出て島村呉服店に入社してきた小山岩男は、恒俊オーナーの母方の従兄弟でもある。伊藤孝子にとっては、呉服店時代からの仕事仲間である。働き者の小山は、長く店に勤めているだけあって、客や商品について細かなことにもよく気がついた。ただし、物事の進め方が慎重すぎて、やや小心なころがあった。
翌日、孝子は母から聞いた話を恒俊に伝えた。そして、それに一言だけ付け加えた。
「社長、斉藤さんや小山さんの様子がおかしいことに、なにか思い当たる節はありませんか?」
恒俊オーナーは、孝子の話に大いに驚いた。小山や斉藤の様子がおかしいことには、どうやら思い当たるところがあるようだった。
チェーン化展開を理解してもらえない
昭和43年の春、しまむらの社員は、男子が12人、女子が35人であった。従業員の出入りも激しかった。高度経済成長が始まり、景気はよかった。会社をやめてもすぐに就職できる働き口がたくさんあった。製造業とは違って、小売業では特殊な技能が必要とされるたわけではない。従業員の多くは、中高卒社員で占められていた。
ところが、地方の小さな衣料品店にしてはめずらしく、しまむらは大卒社員を採用していた。研修という名目で、地方から見習いで働きに来ていた岡野勝司(静岡出身)や山崎壱啓(横浜出身)のような若手の社員たちである。将来のチェーン展開に備えて、あたらしいタイプの仕事ができる大卒社員を、恒俊は育てていきたかったからである。
しまむらが近代的なチェーン店経営を推進していくことを、恒俊は機会があるごとに社員の前で明言していた。経営セミナーや勉強会には、岡野や山崎のような大卒の社員を主体に派遣していた。もちろん、たたき上げの社員であっても、セミナーや勉強会に参加させてはもらっていた。しかし、丁稚奉公から商売を始めてきた小山や斉藤のような中卒の社員は、しまむらの近代化路線から置いてきぼりを食らいそうで不安だった。
恒俊は、2ヶ月ほど前に小山岩男と交わした会話のことを思い出していた。
「社長、3店舗で充分じゃないですか。こんなに売れている(約4億円)のに、あえて危険を冒してまで、どうしてチェーン展開を目指そうとするのですか?」
後で振り返ってみると、恒俊が退院して店に戻ってきたころから、彼らの態度が微妙に変化したようだった。経営方針を受け入れてくれそうにないのは明らかだった。恒俊は小山に向ってきっぱりと言った。
「岩男、しまむらがチェーン展開をしていくのは時代の流れだよ。皆が反対でも、わたしは自分の考えを変えるつもりはないよ」。
3月の末になって、小山から恒俊に折り入って話があると言ってきた。東松山店の2階事務所にやってきた小山は、辞表を手に握り締めていた。小心者の小山は恒俊の目をまともに見ることができない。一言も言わずに、辞表を差し出した。恒俊は慰留するつもりはなかった。考え方がちがう人間を引き止めて、無理やり働いてもらっても仕方がない。
「長い間、ご苦労さん。一生懸命によく働いてくれたね」。
言葉はそっけなく聞こえたかもしれなかったが、それは恒俊の本心だった。小山岩男の長年の働きに報いるために、当時としては最高の退職金を支払った。今のところ、衣料品の販売以外に、何が他にできるわけでもないだろう。新しく商売を始めるためには、準備のための資金が必要なはずである。
それから2ヶ月の間に、男子社員が次々に辞表を手に持ってやってきた。
「社長、自分も辞めさせてもらうことにしました」。
はんで押したように同じせりふを繰り返し、一人ひとりと男子社員がしまむらを去っていった。妻の美智子は恒俊と社員の間を取りもとうとしたが恒俊は誰一人として引き止めることをしなかった。
“誰でもできるシステム”は苦肉の策から生まれた
5月の終わりに、最後にやってきた9人目は、小川店の店長をしている久野だった。その場には、伊藤孝子が居合わせていた。まだ入社して数ヶ月しかたっていなかった久野は、真面目な人間だった。おそるおそる差し出した辞表を、孝子は破りそうになった。本当は辞めたくなさそうだったからである。孝子が久野に向かって言った。
「小山さんや斉藤さんに遠慮しているからでしょう。辞めてすぐに行くところなんかあるの?いますぐ、辞表を撤回したら・・・」。
久野の目には涙が浮かんでいた。本当に泣きたいのは恒俊のほうだった。これで、12人もいた男子社員が、大卒社員の2人と仕入担当の小林藤英だけになる。あとは女性社員ばかりの会社だ。明日からどうしようか。
「孝ちゃん、ほっときなさい。辞めたいという連中の頸に縄を巻いて働かせたってしかたがないよ」。
その後にわかったことだが、斉藤の家に集っていた9人は、連判状に血はんを押していたらしい。自分たちの将来を不安に思った従業員たちは、番頭の小山や斉藤への気兼ねもあってふたりに同調したのだろう。
その後、辞めた社員たちは、それぞれ自分が住んでいる場所に、婦人服の店を構えることになった。店舗の広さは、20坪から30坪だった。100坪の以上の繁盛店を構えていたしまむらの商売とは比べようもなかった。小山は東松山に、斉藤は小川に、野原は寄居に、もうひとりの首謀者だった比留間は行田に、婦人服の店を出した。
イタモト洋服店の島田茂が、4人に資金を援助したといううわさもあった。本当のところはわからない。しかし、いずれの店も成功することはなかった。
残された恒俊は、翌日から3店舗の仕入を1人で担当することになった。小川町の店長は、伊藤孝子に任せた。鴻巣店の店長は、小林である。東松山の店は、新しく採用した若い男子従業員の吉岡が担当することになった。苦肉の策で始めたことではあったが、一挙に、女性店長と新人店長が誕生したわけである。
女性を積極的に登用する時代の始まりである。初心者にも、誰にでもできるような仕組みに、その後、しまむらの事業運営システムが設計されることになる。「男子社員9人、一斉退社事件」が、偶然にもそのきっかけを与えたのである。