第2回「しまむら、夜明け前 商売をもっと大きくしたい!」『チェーンストアエイジ』2008年9月15 日号

昭和28年3月、小川町本町通り 終戦から8年が経過した昭和28年、小川町の目抜き通りにある本町通り商店街には、4軒の呉服屋が軒を連ねていた。 商売が大きい順に、笠間呉服店、清水呉服店、吉田呉服店、島村呉服店――。 店構えがいちばん立派で、埼玉県でも有数の老舗だったのが笠間呉服店である。本店は川越にあったが、のれん分けしてもらった小川町の支店のほうがむしろ繁盛していた。和紙や建具、絹や酒の交易の場として、小川町が大いに繁栄していたからである


となり町の嵐山町や都幾川村(ときがわ)、玉川村、遠くは秩父郡東秩父村から、小川町には多くのひとびとが買い物に訪れていた。なかでも、もっとも集客力が強かったのが、明治創業の笠間呉服店であった。
 店の前には、配達用の大きな荷台がついた黒塗りの自転車が10台、七夕祭りの山車(だし)のように、威風堂々(ルビ:いふうどうどう)と停まっていた。
「うちはまだ商売が小さかったから。贅沢な自転車をたくさん揃えていた笠間さんが、正直うらやましかったですよ」
 しまむらの創業者、島村恒俊オーナーは、ライバルの店先に並んでいる高価な自転車を眺めながら、いつか自分の店も笠間呉服店のような大きな店にしたいと思っていた。
その次ぎに商売が大きかった清水呉服店は、恒俊オーナーの父親、島村喜一氏が36年間、番頭を務めていた修行先である。昭和恐慌後(昭和5~7年)の大不況のまっただ中に、喜一氏が清水呉服店から独立してはじめたのが、「ファッションセンターしまむら」の前身にあたる「島村呉服店」である。
 一軒おいて隣に店を出したので、清水呉服店が、番頭の島村にのれん分けをする条件として、わざわざ笠間呉服店の目の前に店を出させたとのもっぱらのうわさだった。
「親父が独立して商売を始めたときのことをときどき思い出しますね。大恐慌の直後でしたから、それは悲惨なものでした。本町通りには、人っ子ひとり歩いていない。商売はきびしかったですよ」
 歴史がある古い町なので、身内びいきがはげしそうではある。新しく独立したい商人が、受け入れてもらえるようになるまでには、長い時間を要する。たとえ36年間、老舗呉服店の番頭を務めていたとしても、新しい店を出したその日から、その店は商売がたきになってしまう。

 はじめからお客さまはふつうの庶民
 島村呉服店は、間口が2間半、奥行きが5間、小川町では一番小さな呉服店だった。
昭和38年に、しまむら小川町店(小川駅前3号店)の初代店長になる伊藤孝子さんは、池袋の洋裁学校を卒業して、住み込み店員として働きはじめていた。
「前の店は狭くて、店の後ろに相談役(島村オーナー)のご両親が住んでいました。呉服屋さんでしたから、前の店には座売りのお座敷がありましたね。わたしが入ったころ、後ろには服地を扱っていた洋裁部があって、6~7人の縫い子さんを抱えていました」
 伊藤さんは当時17歳。呉服屋の仕事を手伝いながら、島村家の三人の子供の子守役も兼ねていた。
 店構えは小さいながら、島村呉服店の商売はすでにかなり大きくなっていた。主力商品である呉服や寝具以外の服地などを問屋から仕入れて、積極的に拡販に努めていたからである。ただし、芸者衆やふところの豊かな町民を相手に商売をしていた老舗の笠間呉服店や清水呉服店とはちがって、顧客はもっぱら「山の人たち」であった。「山の人」とは、在郷の人を指す言葉である。
 昭和30年ごろは、少し前の「平成の大合併」(平成16~18年)のときと同じように、日本各地で大規模な市町村合併が行われていた。昭和30年2月に、旧小川町(人口11,035人)は、大河村(7,109人)、八和田村(4,160人)、竹沢村(2,918人)を併合して、新制小川町(25,222人)になる。
島村呉服店の主要な顧客は、竹沢村や八和田村、東秩父村など、吸収合併前の周辺村落や秩父郡の住民だったのである。当時から、しまむらは富裕層ではなく、ふつうの庶民を相手に商売をしていたことになる。

 堅実経営で業績を伸ばす
 島村呉服店の商売は堅実経営であった。現金決済で掛売りは原則として行わない。呉服の商売は、掛売りがふつうである。現金で着物を販売することは商習慣としてはごく希である。支払いは年に1回か2回。盆と暮れに集金して、呉服商売の一年は終わる。
現金での決済は、ある程度の資産がないとできない商法である。その代わりに、島村呉服店では、商品の値段を他店より絶対的に安くする努力をしていた。
恒俊オーナーと幼なじみだった島田茂さん(87歳)は、笠間呉服店と島村呉服店に挟まれた場所で、イタモト洋服店を経営していた。島村呉服店を一店舗のころから見ている。
 「島村んちは、とにかく研究熱心だったね。笠間さんや吉田さんのチラシで値段をまめに調べて、一円でも安く売るようにしていたよね」
本町通りでいまも呉服の商売をつづけている吉田稔さん(66歳)にとって、島村呉服店は手ごわい競争相手だった。
 「島村さんは、当時から商売がずば抜けて上手でしたね。太刀打ちできなかったのは、人目をひく白と黒の奇抜なチラシを作って配っていたことです。お店は小さかったのですが、売上はわたしどもより十倍以上はあったはずです」
 吉田呉服店の日販は、そのころ5~7千円。島村呉服店は、毎日の売上が7~10万円だった。チラシを配布する回数も群を抜いていた。
 「わたしどもや笠間さんが月一回なのに、島村さんは毎週のように配っていました。嵐山、都幾川、玉川、東秩父あたりにまで、毎回1万枚から1万5千枚」
物が不足していた時代、どんな商品でも、仕入れたものは飛ぶように売れていた。どの店も、生活するのにじゅうぶん過ぎるくらいの売上をあげていたはずである。しかし、島村恒俊オーナーは、そこに安住することがなかった。
 「あの時代は、皆さん、ずいぶんのんびりと構えていたものです。島村さんのように、商売をもっと大きくしたいと考えるひとは、そんなに多くはなかったのです。わたしたちとは、そこのところが決定的にちがっていました」
 すり鉢の底にあるような小さな盆地の町から、あえて外に飛び出して行こうとする恒俊オーナーの姿勢を、吉田さんは尊敬と憧憬のまなざしで見つめていた。
 昭和28年秋に、島村呉服店は法人化された。株式会社に組織形態を変えた呉服店は、全国でもめずらしい存在だった。