(前号までのあらすじ)
昭和50年、しまむらは、立地調査にセスナを利用して、本格的にチェーン展開をはじめていた。一方、八百屋からスーパーマーケットに転換したヤオコーは、3度の改装を経てその後も順調に成長していた。川野トモ(昭和45年当時、ヤオコー専務)は、義理の両親、清三・志げ夫婦から店の経営を全面的に任されるようになっていた。
昭和46年5月5日、埼玉県浦和市、高橋先生宅
川野幸夫(現、ヤオコー会長)は、2年間の司法浪人の後、故郷の小川町に戻って母親の仕事を手伝うことになった。マルエツ(当時、高橋八太郎社長)での1年半の修業期間を経て、昭和45年の春に、母トモのもとで働き始めていた。幸夫の経営参加で、トモは本格的にスーパーマーケットの事業に乗り出すことを決断した。昭和45年のヤオコーは、2店舗(小川、嵐山)で年商3億円。嵐山店は、番頭の児玉勇が店長を務めていた。
幸夫(当時、29歳)が帰郷してから1年後、浦和高校時代の恩師、高橋冨士男先生(英語科)から幸夫に見合いの話が持ち込まれた。お見合いの相手は、浦和高校の1級下で高橋先生のクラスにいた犬竹正明(28歳)の妹、犬竹光世(24歳)だった。
犬竹家は、入間郡高萩村で26代続いている名主の家柄である。光世の父、哲也(53歳)の家系は、代々高萩の特定郵便局長を務めていた。母親のヨシ(50歳)は、旧姓が金子で、小川町の霜里にある篤農家、金子家の出である。金子家は、400年以上続く旧家で、武蔵七党の残党の末裔だった。
高校で同窓だった犬竹正明(現、東北大学名誉教授)は、東大の工学部を卒業して名古屋の国立プラズマ研究所に勤務していた。お見合い当日に同席できない弟と父親に代わって、長兄の犬竹一浩(29歳)が光世とヨシに付き添ってきていた。
「かわいい妹の見合い相手がどんな人物なのか、しっかりこの目で見てきてやろう」と妹の付き添い役を一浩は志願した。一浩が車を運転して、朝早く武蔵高萩の家を出た。浦和市下木崎(当時)の高橋先生宅に和服姿のふたりを送り届けたのは、お昼過ぎだった。
学校の先生みたい!
「おひさしぶりですね。お元気そうで・・・」。
高橋先生から両家の紹介と通り一遍のあいさつがあってから、最初に犬竹ヨシに話しかけたのは川野トモだった。光世の母、金子ヨシ(旧姓)は大正7年の生まれで、小川高等女学校の初代生徒会長だった。川野トモはヨシの2学年下で、やはり小川高等女学校の3代目生徒会長だった。両家が釣書を交換する前から、母親同士は知り合いだったのである。
「川野さんは、門倉さんというお名前でしたよね。わたしも昔は金子姓でしたけど。子供を連れてお店に寄らせていただいたのが最後でしたね。15年ほど前だったかしら」。
小川町駅の北側にある女学校の校舎まで、ヨシは4キロの道のりを歩いて通学したことを思い出していた。二人が学んだ小川高等女学校は、昭和25年に「埼玉県立小川高等学校」と改称され、今は男女共学になっている。
女学校時代の先生の話題が一段落すると、トモはヤオコーの商売の話をはじめた。川野家の嫁になるかもしれない光世に向って、スーパーマーケットの仕事を説明している風でもあった。「商家のお嫁さんというのは、ずいぶんとはっきりとモノを言うものなのだな」と光世は感じていた。
トモの隣に座っている幸夫は、人柄が誠実そうに見えた。何よりも、母が生まれた小川町の人である。そのことだけで、親しみと安心感があった。釣書に添付されていた写真は、社員旅行か何かのときに、女性従業員たちと一緒に撮ったスナップ写真らしかった。
光世は、長兄の一浩と同じで、東京薬科大学を卒業して薬剤師の資格をもっていた。ドイツ系の製薬会社である「ヘキスト・ジャパン」の狭山研究所で秘書として働いている。会社には動物実験の設備があって、白衣の研究者が周りにたくさんいた。そんなこともあってか、幸夫の写真を見たとき、「学校の先生みたい」と光世は思ったものである。目の前にいる本物の幸夫も、下の兄の正明と同じで、研究者か学者のような印象だった。
長兄の一浩は、下の兄とは対照的な性格だった。三共製薬(現、三共第一製薬)のMR(医薬情報担当者)で、優秀な営業マンだった。手品が得意で、達筆で書道は5段。如才のない性格で、妹の光世には、しばしば「俺の1年の売上げは2億円」と自慢していた。
そんな兄の一浩が、自分のお見合いの体験談を披露し始めた。「お見合いは、迷わず短期決戦がいちばん」と持論を展開すると、一同は大爆笑となった。その場が大いに和んだ。
伯父から剣道の手ほどき
「いったい、8時間もふたりで何をしゃべっていたのでしょうね」。
ふたりっきりになったときに、幸夫は光世に話しかけた。初対面の席で、お見合いの相手(旧姓:松井功子)と8時間も延々としゃべり続けたのは、兄の一浩だった。
光世は、前年の4月に結婚したばかりの兄の武勇伝を、おもしろおかしく幸夫に伝えた。東京に転勤になるというので、お見合いから4ヶ月で結婚にゴールインしたこと。初対面にもかかわらず、相手の両親を先に返して、大阪のホテルで8時間も義姉の功子と話しこんだこと。破天荒な兄の行動のおかけで、幸夫との距離がすこし縮まったような気がした。
「実は、伯父さんから、中学時代に剣道を教わっていたのですよ」。
伯父さんとは、光世の母ヨシの実兄、金子萬蔵のことである。幸夫は、小川警察署の道場で萬蔵から剣道の稽古をつけてもらっていた。そのおかげで、中学3年のとき、幸夫は13人抜きで埼玉県の剣道大会で優勝していた。剣道6段の萬蔵は、昭和6年に嵐山に開設された「日本農士学校」(初代校長、安岡正篤)の1期生だった。
光世は、記憶の糸を手繰ってみた。幼い光世にとって、萬蔵は几帳面な人だった。霜里農場主の萬蔵はいつも、400年前に建てられた旧くて大きな茅葺き屋根の家の中から忽然と現れた。小川の町に出かけていくとき、髪をきちんと七三に分け、背筋をまっすぐに伸ばし、直立不動の姿勢で自転車をこいでいた。光世の記憶に残されていたコミカルな萬蔵の姿が、実は萬蔵が剣道の達人だったからなのだということを、幸夫の解説で今日はじめて知ることになった。
向こうの席から、母親のヨシと話し込んでいる川野トモの声が聞こえてきた。光世の記憶の中からもうひとり、若いころの川野トモの姿が蘇ってきた。
夏休みのある風景
その絵は、夏休みの風景の中にあった。光世は小学校の低学年。毎年同じように繰りかえされる七夕祭りの灯篭のようにも思えた。お盆のころ、母の実家に泊まりに行くために、一浩、正明、光世の犬竹3兄弟は、母に連れられて川越線の武蔵高萩駅から汽車に乗った。
朝10時ごろに武蔵高萩駅を出発した列車は、7分後にひとつ先の高麗川駅に到着する。高麗川駅で、4人は八高線に配置されていた蒸気機関車のD51に乗り換えた。左側の車窓から、光世は入道雲の下に広がる秩父連山を仰ぎ見ていた。SLは、毛呂、越生、明覚の駅に順番に停車した。ここまでは緩やかな登りで、明覚駅からは下り勾配になる。11時過ぎに明覚駅のホームを離れたD51は、川沿いの深い緑の森の中を滑るように下って、13分後に小川町駅に滑り込んだ。
小川での子供たちの楽しみは、美しい川と里山での遊びだった。夏休みが近づくと、金子家の子どもたちは犬竹家の3人が来るのを首を長くして待っていた。愛子、美登(よしのり)、隆子の3人と、清流の槻川で水遊びをした。従兄弟たちが遊びに来たときだけ、離れの部屋に皆で泊まることが許された。6人にとって、それが何年か続いた夏休みの楽しい行事だった。
小川町駅で下車すると、駅前の通りをまっすぐに歩いた。末っ子の光世は、母に手を引かれて歩いた。もしかすると、母の腕にぶら下がっていたかもしれない。本町通りの角を左に折れると、右の角に八百屋があった。昔の八百幸商店である。
「バナナが食べたい!」と兄の一浩が母にねだった。昭和20年代の後半。バナナは貴重な食べ物だった。店の中から威勢のよいお兄さんが出てきて、「いらっしゃい」と一浩と正明に呼びかけた。小僧だった頃の児玉勇である。バナナは、店の天井から房ごとに吊されていた。ぶら下がっているバナナをひとりに1本ずつ、母親が買ってくれた。
「坊やたち、今年もまた来てくれたわね。ありがとう」。
店の中から和服姿のきれいなお姉さんが出てきて、母親と一言二言、言葉を交わした。それが、若いころの川野トモだった。その人が今、こうしてお見合いの席で光世と話している。その出会いの偶然に、光世は不思議な思いがした。