いま書き終えたばかりの『マネジメントテキスト マーケティング入門(初版)』の「まえがき」をアップする。原稿の校正作業は、順調に進んでいる。日本経済新聞社には、本日、第6章までの校正原稿を戻すつもりでいる。あと一週間で、原稿は、完全にわたしから手離れする。不思議とさみしくもある。
はじめに
本書は、日本ではじめての本格的なマーケティングのテキストである。「本格的な」と表現したのには、三重の意味がある。
第一に、日本語で書かれた上質なマーケティングの教科書が、これまで一冊も存在していないことである。簡易なマーケティングの入門書や概説書がないわけではない。それなりのクオリティのテキストを入手することはできる。しかし、マーケティング活動の概要を理解した後で、本格的にマーケティングを勉強したいと思った学生やビジネスマンが、さらに上級のテキストを求めても、日本語では限られた領域の研究書しか手に入らない。それが長い間の現実であった。
第二に、500ページを超える分厚いマーケティング書となると、翻訳書になってしまうことである。ところが、米国ビジネススクールの有名教授たちが書いたテキストに登場する企業やブランド、広告素材やキャンペーン、小売チェーンの名称は、日本人にとってほとんどなじみが無いものばかりである。マーケティングの素材は、基本的にドメスティックであり、本質的にローカルである。マーケティングを理解するためには、われわれにとって親しみのある対象について、手触り感のある記述が必要である。英語で書かれたテキストは、基本的にリアリティが欠如している。
第三に、日本企業のマーケティング実践を、理論的な枠組みの中で整理して語り継ぐという伝統を、日本の研究者集団が醸成できなかったことである。日本人のマーケティング研究者の努力は、米国の理論や概念を翻訳して輸入するか、特定分野に特化した詳細なリサーチを選択するかに向けられてきた。原罪の一部は、筆者自身も背負っている。
その一方で、日本の企業は、米国流マーケティングの移転を終えて、実践的に大きな成功を収めてきている。メーカーも流通・サービス業も、マーケティングの実務面においては、明らかにグローバルに成功しているのである。それなのに、わたしたち研究者は、米国マーケティングの枠組みを超えることができていない。
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本書の構想は、日本人の研究者として、長年抱いてきた「忸怩たる思い」に対するチャレンジから始まった。キャッチコピーは、「日本人の、日本人による、日本人のためのマーケティング」である。いま、食の世界でも国産が見直されているように、日本には日本の経営や独自のマーケティングが存在している。日本企業が達成した立派なマーケティング実践を、正当に評価して記録に残しておく責務がわれわれ研究者の側にはある。本書の隠れた執筆動機は、日本人研究者としての「健全なる民族主義」である。
本書の特徴をあげるとすると、民族主義的な動機以外に、以下の4つである。
第一に、読者のさらなる学習を手助けするために、参考文献を豊富に付することにした。各章末には、50~100点の書籍や論文が配置されている。基本方針として、英文の書籍や論文は最小限に抑えることにした。多忙なビジネスマンにとって、読書の効率は大切である。マーケティングを知るために参考書や原典を読むのであって、英語の勉強が目的ではない。したがって、参考文献としては、日本語の書籍や論文を優先的にとりあげることにした。だたし、オリジナリティの高い論文については、英文論文の出所を明記してある。
第二に、事例として登場させる製品やサービス、企業組織は、ほとんどが「日本産」である。本書は、いまどきめずらしいくらい、ドメスティックな内容の書籍になっている。日本企業と日本製品、日本の流通・サービス業が主役である。欧米企業とその製品は、日本への進出企業に限られている。むしろ、日本企業のアジア市場への進出事例が、類書よりかなり多い。言い換えれば、マーケティング入門と題しながらも、本書は、戦後日本の「マーケティング実践史」を書いたことになるのかもしれない。
第三に、マーケティングをさらに深く学習したいと考える読者のために、基本的な文献と事実に関する情報源を明記することにした。約1000点の参考図書と引用文献を、各章末に一覧表として用意してある。また、各頁の下には、記述の根拠になった記事や論文、ホームページのアドレスなどを、脚注として付している。この点は、米国の教科書から学ぶところが多かった。全体のボリュームが大幅に増えてしまった理由でもある。
第四に、本書では、歴史的な視点を大切にしている。第二章をまるごと、「マーケティングの発達史」に充てることにした。日本語のテキストはもちろんのこと、米国の標準的な教科書にも、マーケティングの歴史は登場しない。マーケティングは、「完成した仕組み」として記述されている。筆者の認識はそれとは大いに異なっている。マーケティングは進化するものであり、次世代の優れたブランドや会社組織によって、常に「いまが乗り越えられてしまう」ものである。静態的にマーケティングの対象を描くのではなく、発展史の中で、企業やブランドの実践を記述するように努力してみた。
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本書は、出版までに約10年の歳月を要している。完成までに長い期間を要した理由をここに簡単に記しておきたい。
10年前のある日のことである。55歳で急逝した法政大学の元同僚、橋本寿朗さん(経営学部教授)に、日本経済新聞社出版局の堀口祐介編集長を紹介してもらった。「小川君、テキストまだないよね。一冊は書かなくっちゃだめよ」の一言から、あっさりとテキストの執筆を引き受けることになった。日経のロングセラー「ゼミナールシリーズ」に続いて、「マネジメントシリーズ」がはじまっていた。その「マーケティング入門」の担当者としてである。
「2年もあれば、入門書くらいは・・・」と簡単に考えていた。執筆の準備を進めていたところ、2002年1月15日に、経営学部長への就任が決まっていた橋本さんが、心臓大動脈瘤剥離で突然亡くなった。精神的に衝撃を受けただけでは済まなくなった。代わりの学部長のなり手が誰もいない。筆者自らが経営学部長に就任せざるをえなくなった。そして、その後の学部改革を経て、経営大学院の開校に至るまでの6年間、テキストどころか、アカデミックな仕事には、まったく手がつけられる状態ではない。教科書の執筆もやむなく中断となってしまった。
ようやく「喪」が明けたのは、2008年3月のことである。次期の学部長に選ばれた神谷健司教授に頼んで、サバティカル(一年間の研究休暇)をもらった。ふたつのことを完遂するためである。10年間そのままにしていた「マーケティング入門」のテキストを書き終えること。2001年から暖めていたノンフィクション小説「小川町物語」の連載執筆に挑戦することであった。
「小川町経営風土記」のほうは、商業誌『チェーンストアエイジ』で、2008年9月1日号から隔週の連載がスタートした。今夏までに連載は終わり、秋には単行本として出版が予定されている。埼玉県比企郡小川町出身の優良企業である「ファッションセンターしまむら」と「食品スーパー、ヤオコー」の創業期の物語である。
そして、もうひとつ、サバティカル期間中に完成したのが、本書『マーケティング入門』括弧である。700ページを超える長さの本は、一日も休まずに書き続けても、毎日2ページ(3000字)のペースである。一人でよくぞ書き終えられたものだと、とても感慨が深い。
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本書の活用の仕方について、少々説明をしておきたい。全体は、4部から構成にされている。全18章で、それぞれが3~5節からなる。簡単に、本書の構成を説明する。
第一部「マーケティングの考え方」では、マーケティングの基本的な概念と仕組みが説明される。第一部を読んだだけでも、マーケティングがどのような枠組みで計画・実行されているのかがわかる。
第二部「顧客と競争環境の分析」と第三部「マーケティング意思決定」とは、対(ペア)になっている。第二部では、企業が環境に適応するために、顧客や競争者の情報を収集分析するための枠組みを与える。第三部では、製品や価格、プロモーションや流通などのマーケティング手段を用いて、企業が市場に働きかける方法を解説する。
第四部「広がるマーケティング活動」は、基本的なマーケティング活動の応用編である。そこでは、同時にマーケティングの未来が展望される。
各部のはじめには、「オープニング事例」が準備されている。そこでは、2006年から最近までに起こったマーケティングのイベント(事件)を取り上げている。その章末には、同じ会社が、その約10年前に経験したマーケティングの状況を、事例として記述してある。両方を比較して、同じ会社のマーケティングを歴史として考察してもらうためである。
各章には、原則として、2つの「コラム」を挿入してある。本文中の事例では、充分に説明できないマーケティングの実際的な側面や、マーケティング概念を補足的に解説するためである。コラムは、二種類のバラエティがある。ひとつは、筆者が雑誌やHPのコラムに短い記事として書きためてきたエッセイである。もうひとつは、筆者が指導してきた大学院生がまとめた論文を元にした研究的なコラムである。
* * *く
最後に、本書の完成に貢献してくれた人々に感謝の意を表わしておきたい。
10年間にわたる長い執筆期間を通して、本書の元になった文献や基礎データは、研究室のリサーチ・アシスタントである青木恭子がまとめてくれたものである。いつもながらではあるが、彼女なしに原稿の執筆は1頁たりとも先に進むことがなかったことを、ここで明記しておきたい。
その同じ期間、5人の秘書が交代で筆者の研究を支援してくれた。年代の順に、本村ちなみ、大関悦子、内藤光香、野田雅子、福尾美貴子の5人である。また、プロジェクトの進行とスケジュール管理については、日本フローラルマーケティング協会事務局員の村上直子が、調整の労をとってくれた。6人には大いに感謝したい。
なお、本書の執筆は、2006年の途中段階からは、西武文理大学の高瀬浩准教授との共同作業になった。最終的に、本務校での仕事が忙しくなり、本書を共著の形で出版することができなくなってしまった。全18章のうち、7つの章(4~6、11~13、16章)は、高瀬君が筆者の授業資料を用いて、最初のドラフトにまとめてくれた成果である。その努力に感謝をしたい。
引用論文やプロジェクトの成果は、多くの先輩研究者や同僚、弟子たちの努力に依存している。本書の中で、さまざまな事例やデータが登場するが、テキストを執筆している間に、昔の実験プロジェクトや共同研究のことを思い出していた。懐かしく思うとともに、多くの人々から、研究成果を本書のエッセンスとして注入していただいたと感謝している。
企業の方からの支援も少なくなかった。商品や店頭プロモーションの写真、広告素材や事例に関わる情報や調査データなど、ふつうの教科書では考えられないほど、多くのサポートを産業界からいただいた。仕事に関する長年の信頼関係があったればこそと、自分の幸運に感謝している。
最後に、本書を、亡き大先輩で戦友の橋本寿朗教授に捧げたい。完成までに相当の時間をかけてしまったが、筆者がどうにか本書を上梓することができたのは、橋本さんの声に導かれてのことである。橋本さんは、自らの研究に対して厳しい人であったが、同時に、後輩や仲間の仕事についても、優しくかつ厳しく不断の努力を求める人でもあった。研究分野は異なるが、研究者としてのロールモデルであった。
一流の仕事をする研究者をそばで見ることで、いつも快い緊張感を得ることができた。いまは、そうした良きプレッシャーを失ったことに、言いようのない寂しさを感じてしまう。本書の完成で、「学者である限りは、いい仕事を続けるべし」という、橋本さんとの暗黙の約束がひとつだけ果たせたような気がする。
平成21年5月25日@千葉県白井市の自宅にて