3連休の中日、市ヶ谷の味噌煮込みうどんの店で、好物の鍋焼きうどんを食べた。DIY協会から依頼された原稿の締め切りは、とうの昔に過ぎている。休みにもかかわらず、市ヶ谷の事務所で原稿を書くはめになった。
食堂の中は閑散としている。午後1時半、食事をしているのはわたしだけである。従業員があまりに暇そうにしているので、いつものクセで女将さんらしき人に声をかけてみた。「昨日(建国記念日)も今日も暇で、商売にならないです」(女将さん)。もうひとりの女性従業員が、こっそりあくびをしている。
間口が一間半、店内は広くない。4人がけのテーブルが7、8卓、全部で30席くらいか。麹町・番町近くのオフィス街で、平日昼時の回転で商売が成り立っている店である。近くの事務所に人気がない休日は、そもそも通行客の流れが全く途絶えてしまう。店を開けていること自体が無謀とも思える。戦前生まれの人たちがそうであるように、「それでも、こうして働いてないと落ち着かないのよね」と女将さん。
週末や祝祭日に食べる場所がなくなるわたしのようなものにとって、土・日の午後に暖かいうどんが食べられる店が開いているのは、この上もなくありがたいことである。しかし、休日・夜間人口がほとんどない市ヶ谷・麹町周辺で、食堂の休日営業は成り立つはずもない。女将さんの口調は、昔語りになった。
年の頃は60歳代後半。奥の台所では旦那さんとおぼしきご老人が、うどんをゆでているのがカウンター越しに見える。店の地下では、若い衆がうどんを手打ちしているのだそうだ。うどん打ちの実演を見せれば、通行客を導き入れるアトラクションになるだろう。残念ながら、狭い店内ではうどんの手打ちを見せる場所もスペースもない。
女将さんは戦前に九段下で生まれた。ご主人と結婚した後、渋谷に移って煮込みうどんの店を開いた。30年以上も前のことだというから、わたしが東大の駒場に通っていたころである。東急ハンズの向かい側で、結構大きな店を経営していたらしい。以前の店では、玄関でうどんの手打ちを実演していたらしい。デモンストレーションなどはまだ珍しかっただろうから、さぞかし店の前には人だかりができていたのだろう。
時代の流れで、渋谷の街は客層が変わった。NHK、西武百貨店、パルコから公園通りを歩きなれていたはずのわたしなどでも、ある時から渋谷は怖くて近寄ることができない街になった。そういえば、あのころは貧乏学生だった。2駅分、30円の電車賃を浮かせるために、駒場東大前から井の頭線の電車には乗らず、いつも神泉のラブホテル群の裏を歩いて、東急百貨店の通りから渋谷駅に出ていた。アパートがあった都立大学前までは、渋谷駅から東急東横線に乗って帰った。渋谷までの通り筋に「くじら屋」があって、一度だけ友人たちとくじら鍋を食べた記憶がある。子供の頃、給食の定番は、かみ切れないくらいの堅いくじらの大和煮であったが、くじら屋で食べたはずのくじらの味は、どうしても思い出すことができない。
女将さんの話は続いた。渋谷に来る若い人を相手では、昔ながらの手打ちうどんの商売はうまくいかなくなった。若者や渋谷のOLは、コンビニや持ち帰り弁当で昼飯をすませてしまう。渋谷の店は畳まざるを得なくなり、生まれ故郷の市ヶ谷に戻ってきたのがちょうど一年前のことである。
女将さんは、九段に帰ってきてほっとしたという。渋谷では、周囲の店が3ヶ月ごとに変わってしまうので、精神的に落ちつかなかった。この町(千代田区九段南4丁目)では、長く商売ができそうだった。本人たちは精神の安定を取り戻したものの、商売繁盛はそれとは別の次元のことである。番町・麹町・九段南の客筋は悪くはないが、何せ昔とはちがって実際に暮らしている人の数が多くはない。
お屋敷の街だった市ヶ谷は、いまは事務所用のペンシル・ビルとマンションだらけになってしまった。たばこを吸わないわたしなどでも、ここに6年間も住んでいるので、近所のたばこ屋のおやじとは、毎朝挨拶を交わすほどの仲良しである。半年前に飯田橋の商業ビル・ラムラから店を移した花屋のおばさんには、お祝い用の鉢花が必要なときに、大田市場(FAJや大田花き)から、わざわざ指定の品種を調達してもらうほどである。下町的な人情はとても暖かである。
煮込みうどんの店の隣が花屋である。鍋焼きうどんを食べ終えて店を出るとき、女将さんが言った。「花屋がお隣にあるっていいわよね。店先がきれいで華やかになるし、お店をあけると隣から素敵な花の香りが漂ってくるんだから。とても得した気分になれる」
わたしどもJFMAの守重専務理事が、いつも言っている理想の商店街のことを思い出した。「どんな街にも素敵な花屋さんが一軒は欲しい。花屋さんがあることで、商店街が美しく輝いて見える。そんな役割を花店は担うことができる」
守重さんの言葉は、どこかきれいごとを述べているだけではないかと思っていた。うどん屋の女将の言葉を聞いて、そうではないと初めて実感できた。