【柴又日誌】#217:誕生日(10月23日)が来ると、引っ越してから満7年になる。

 2018年10月30日、千葉県白井市から東京下町の葛飾区高砂に引っ越してきた。最寄駅は、京成線の特急が停車する京成高砂駅。次男の家族4人と、2世帯住宅で暮らし始めた。現在、小学校1年生の夏穂と4年の穂高のふたりは、ヨチヨチ歩きの1歳と幼稚園児で4歳だった。 
 
 わたしたち夫婦は、この間に、2人とも長年勤務した大学(都内の私立大学)と会社(某大手百貨店)を退職した。新築の二世帯住宅がある場所は、かみさんが生まれた京成立石の二つ先の駅。新しい住まいは、高砂の駅からは徒歩5、6分の場所である。
 二人の孫が通うことになる小学校の正門が、目の前(徒歩1分)にあったことが、この土地に2度目の新築住宅を建てる決め手になった。かみさんにとっては、子供のころから良く知った場所で、友人や親せきが住んでいる場所である。
 わたしにとっては、走って6分のところに江戸川の河川敷があった。マラソンの練習コースにはもってこいの場所だった。一方通行や行き止まりになる道はそれなりに多いが、思った以上に緑豊かな場所だと知って驚いた。いや田舎育ちのわたしは、とても感激することになった。
 
 わたしは東京の大学に入学して、秋田から上京して以来、いつの日か東京の下町に住みたいと思っていた。そのことは、何度もブログに書いてきた通りである。そのため、2014年頃から約2年間は、東京下町の江東区森下に書斎を構えていた時期もある。それもこれも、終の棲家をを探すためだった。
 2018年の春に、京成立石の不動産屋さん(はりき不動産)で、現在の高砂の土地を見つけることができた。50年来の希望は、とうとう実現することになった。かみさんは、「千葉県民で終わりたくない。いつか東京都民に戻りたい」と願っていることは知っていた。
 この土地を見つけたとき、次男の真継とわたしは千葉からの移住を決断した。当時、次男の家族は、津田沼の社宅に住んできた。次男の嫁ちゃんが、三階建ての二世帯住宅に同居することに同意してくれた。その瞬間、かみさんは感激のあまり声が出なかった。わたしも、真継の嫁さんの決断に感謝だった。
 わたしたちは、結婚後に米国カリフォルニアに2年間住んだこともあった。ただし、その前後は葛飾区を離れてしばらくは千葉県民だった。千葉県市川市に約5年、白井市(当初は白井町)に移ってから36年が経過していた。だから、かみさんは県民から都民に戻れること知って、大粒の涙を流した(この表現は、やや大げさだったかもしれない)。
 
 引っ越しの当初は、経験したことのない生活がはじまった。下町の商店街での買い物や暮らしぶりがものめずらしかった。ご近所さんとの交流は、とても楽しかった。それはいまでも続いている。都内に残された90ヘクタールの水郷公園(水元公園)の風景には、いまでも命が洗われる気持ちになる。
 子供たち家族との引っ越しの一件は、小説にして「小学館スクウェア」から出版することになった。2年前の2023年10月のことである。いまでは思い出になる懐かしい7年間だった。いまはかなり落ち着いてきたので、そろそろ次のステージに移る準備をはじめようかと思っている。
 来月(10月23日)に、わたしの満74歳の誕生日がやってくる。これまで定年後に続けてきた仕事や下町での生活に一区切りつけたいと思っている。いろいろと考えるところもある。消防団の活動もアフターゼミの開催、日本フローラルマーケティング協会の仕事もあるのだが、どのように終わらせたらよいのか?
 わたしにとっては、これまで全力投球してきた事案である。しかし、そろそろ終活の準備を始める時でもあるようだ。

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