【柴又日誌】#160:純子さんの温かい手

京都の娘が高砂に休暇で帰省している。滞在中に初めて迎えた週末の今日、練馬に住んでいるかみさんの姉(きよこさん)が、わが家にやってきた。母親が金町の特別養護老人ホームに入居している。仲良しの姉妹が、わが娘を連れて母親(純子さん)に会いに行くことになった。わが家から金町の特養までは車で5分ほどである。

 

 義母の名前は、奥村純子。去年の9月に、めでたく90歳の誕生日を迎えている。

 わたしは、昨夜のうちに、いま取り掛かっている翻訳本の初校ゲラのチェックが終わっていた。仕事が一段落したので、午前中は、奥村家の菩提寺「南蔵院」まで走って、奥村の姉妹と娘と一緒に墓参りを終えた。スシロー奥戸店でランチをとった後、久しぶりで純子さん(義母)の顔を見るために、3人のお見舞いに同行することにした。

 世話好きの姉妹は、頻繁に純子さんの老人ホームを訪問している。コロナの最中は、リモートでしか母親と話しができなかったが、コロナが5類に変更されてからは直接、3階にある純子さんの部屋を訪問して、対面で会話をする時間をとることができている。

 面会の時間帯も、近頃はかなり自由になった。午前10時から11時半までと、午後13時半から16時までである。本日は、午前中に墓参りがあったので、訪問は午後14時からになった。

 

 ホームの前に車を停めて、わたしたちは3階にある義母の居室までエレベーターで昇っていった。いつも世話してくれているヘルパーさんが、昼寝をしている純子さんをそっと起こしてくれた。「純子さん、たくさんの方がお見えになってますよ」(ヘルパーさん)。元旦から親戚一同がとっかえひっかえ、純子さんを訪問している。

 ベッドで横になっていた義母が、ヘルパーさんの声に気づていて、ゆっくりと体を起こしかけている。純子さんは足が不自由なので、ヘルパーさんの手を借りて車いすに移してもらった。

 義母の部屋は、「スーパーいなげや金町店」の2階フロアが窓から眺められる3階にある。ベッドと簡易な水回りがあって、タンスの上には、自分の子供や孫たちの写真や、10年ほど前に亡くなった連れ合い(正太郎さん)の遺影が飾ってある。本日、見舞に訪れた4人の写真も、ファミリーごとに名前入りでアルバムに飾られている。

 純子さんの子供は女の子で、3人姉妹である。わたしのような義理の息子たち3人を入れると、合計6人。孫が8人で、ひ孫が10人になっている。今どきの基準で言えば、子だくさんで繁栄している家系である。90歳まで生き延びたゴッドマザーが、純子さんである。

 

 面会の時間は、約40分。はじめて金町のホームを訪れた娘のともみに、ババちゃんが近況を尋ねている。「あー、ともみちゃん、、、」。少し耳が遠い純子さんは、補聴器を装着しないとわたしたちの声が拾えない。つづいて半年ぶりの訪問で、久しぶりに対面したわたしの顔を見て。「あー、こうすけさん」とわたしの名前を正確に呼んでくれた。

 箪笥の上には、10月にペンネーム(小石川一輔)で出版した『わんすけ先生、消防団員になる。』(小学館スクウェア)が1冊、置いてあった。暮れにかみさんに新刊本を託して、純子さんにプレゼントしておいた。本はふつうに読めるようだ。本の中ほどに、付箋紙が挟んであった。

 実は、わたしの名前(次女の旦那さん)を覚えてくれているかどうか不安だった。しばらくの間、面会はリモートだったからである。コロナが明けた去年の春でも、面会の場所は一階のロビーに限定されていた。わたしが面会に行ったとき、顔と名前がかろうじて一致してはいたようだった。

 2年ほどの間、車いすの純子さんは、3階からロビーに降りてくることができなかった。感染が心配で隔離されている影響なのか、本人の認知機能と言語能力が後退しているように見えた。わたしたちと話している間も、表情はニコニコしているけれど、どことなく不安そうに目が訴えかけていた。

 

 それが、本日はちょっと様子がちがっていた。自分の部屋で、わたしたちと話すことになったからなのだろう。前回よりは、ずいぶんとリラックスしているように見えた。

 姉のきよこさんが、「純子さんに、お歌でも唱ってらいましょうかね」と、本棚から童謡や文部唱歌が載った歌詞本を探してきて、純子さんの膝の上に置いた。それを、指の感触がやや鈍くなっている「ババちゃん」(子供や孫たちの純子さんの呼び名)は、おもむろに歌本をめくって歌い始めた。

 

 滝廉太郎の「花」、、、

  春のうららの隅田川、、上り下りの船人が、、かいのしづくも花と散る、、、眺めをなににたとうべき。

 「鉄道唱歌」(文部省唱歌)、、、

  汽笛一声新橋を、、はやわが汽車は離れたり、、愛宕の山に入り残る、、月を旅路の友として。

 などなど。

 昔を思い出すのか、純子さんは、歌本のページを繰りながら、嬉しそうに歌い続けていた。

 この部屋には、歌の本は二冊ある。純子さんは膝の上に片方を抱えて、このままの時間が延々と続いて行きそうだった。両姉妹と娘のともみは、純子さんが一曲歌い終わるたびに、両手を広げて拍手をした。わたしは歌詞がわかる限り、純子さんの歌を邪魔しない程度に、一緒に協奏するするよう心掛けた。

 

 ほどなくして純子さんは、「わたし、トイレに行きたい」と言い出した。かみさんがヘルパーさんを呼んだ。

 トイレは3階の一番奥にある。誰も入っていないことが目視でわかるように、いつもドアは開いた状態にしてあるらしい。居室で面会が始まってからは、約40分が経過している。お昼寝を邪魔して、起き上がってから5~6曲ほど歌った。純子さんも疲れているはずだった。

 純子さんがトイレから戻ると、姉妹がヘルパーさんに退室の意思を伝えた。わたしが聞いたところでは、面会はいつも一時間は超えないようだった。そろそろ退去すべきタイミングが来ていた。わたしたちが、「ばばちゃん、そろそろ帰るよ」と告げると、純子さんの表情が曇って、ちょっと寂しそうに変わった。

 

 いまだインフルエンザやコロナに入居者が感染する心配が残っている。ホームの方針としては、「面会人とのお別れは、各階のエレベーターの前で」という規則になっているようだった。

 ヘルパーさんに車いすを押してもらって、純子さんは3階のエレベーターの前までわたしたちを見送ってくれた。ともみが、純子さんの手のひらを握って、「じゃ、さようならね」と告げた。京都の娘とは、またいつ会えるかわからない。

 その瞬間である。純子さんがわたしの方を見て、「こうすけさん、握手、、」と手を差し出した。他の誰でもない、娘婿のわたしが、握手会の最後のご指名を受けたのだった。わたしはエレベーターの中に入りかけていたのだが、純子さんと握手するために、エレベータから出て車いすの前に移動した。

 

 少し戸惑いながら、わたしは純子さんの手を軽く握り返した。老人の手は冷たいものだと思っていたが、純子さんの手のひらはとても温かだった。

 「ばばちゃん、じゃー、またね」とわたしが言葉を返すと、周りの3人が純子さんとわたしの顔を交互に覗き込んでいるのがわかった。純子さんの目はきらりと輝いていた。「純子さん、こうすけさんが大好きなのよね」と、かみさんがわたしの方を見て笑った。そうなのだ。かみさんと付き合い始めてからも、3人の子供たちが生まれてから後も、純子さんはわたしの大のファンだったようだった。

 横浜で育った純子さんは、奥村家に嫁いで3人の女の子を生んだ。家族が女子ばかりだった純子さんにとって、旦那の正太郎さんを除くと、わたしは新参者ながら初めての息子で男子だった。

 

 扉が閉じて、エレベーターの箱は3階から1階まで降下していった。エレベーターから降りると、かみさんがわたしに言った。

 「立石(奥村家)では、みんなが帰るときに握手するのが習慣だったのよ」。結婚して奥村家で息子になったわたしは、奥村の家にそんな習慣があったとは、つい先ほどまでは知らなかった。ただし、姉妹や肉親との間では、別れ際に握手をすることがなさそうだった。

 かみさんの言葉を斟酌すると、純子さんから握手を求められたわたしと娘は、「遠い親類」に属しているらしい。純子さんがわたしに握手を求めたのは、時々来ては帰っていく知り合いとの別れという、いつもの儀式のルールにしたがっただけのことなのだろうか?ご主人の正太郎さん亡き後も、純子さんは大切な来客が帰る際には、握手でお別れするという習慣を忘れることがなかったのだった。

 隔週のペースで自分に会いに来てくれる姉妹とは、握手で別れるセレモニーは不要である。わたしや娘のともみは、認知機能が衰えかけている純子さんの意識の中では、本日たまたま訪問してくれた「外の人」だったのである。だから、別れ際に握手を求めてくれたのだった。

 

 わたしは、前回の訪問時のことを思い出してみた。春から夏にかけて、半年前のことになる。そのときは、純子さんがわたしや、しばらくぶりでやってきた親類の子どもたちに握手を求めることはなかった。

 かつての奥村家の習慣のことを、純子さんは思い出したにちがいない。青砥の駅前にあった田沼商店(その後に閉店)に、いつか突然思い出して、かみさんと味噌を買い出しに行ったことがあった。あれは、ホームに入居する少し前のことだった。想像の域を出ないけれど、長期のホーム滞在で長らく眠っていた純子さんの認知機能が、ようやく回復しかけている兆しなのかもしれない。