関西に住んでいる子供(京都、神戸)とお孫さんたち(神戸)に会いに、新幹線で小さな旅を試みた。旅行の行程は、先週の土曜日のブログ「そうだ 京都、行こう」(5月25日)で紹介した通りである。
品川発で京都着の新幹線のぞみ号に乗る前に、当初の計画では品川駅のキオスクで小説を買う予定だった。気楽に2時間をライトな小説で過ごすつもりだったのだが、自宅を出る瞬間、本棚に置いてあった『食の歴史』をカバンに入れることになった。
3年ほど前にコロナ禍で時間ができたので、アマゾンで購入しておいた書籍である。分厚い本だったので、例によって、読まれずにそのままになっていた。
著者のジャック・アタリは、著名な未来予言者であり、独特のライティングスタイルを持った作家である。政治コンサルタントも歴任している。例えば、80年代には、フランスのミッテラン大統領の政策顧問をしていた。90年代には、欧州復興開発銀行の初代総裁の要職にあった。その経験を活かしてなのか、その後は、世界の未来の姿を予言する書籍を何冊も出版している。
たとえば、『2030年ジャック・アタリの未来予測』(ダイヤモンド社)、『海の歴史』(ダイヤモンド社)、『アタリ文明論講義』(筑摩書房)など、文明予測についての著書が多数ある。
正直に言えば、『食の歴史』のあとで、上記の3冊を読む気になるかといえば、ちょっと無理だと回答しておきたい。読み終えるのに、それほど多くの時間が必要なわけではない。しかし、アタリ氏は、研究資料的な事実(データ)を引用しながら、独自の解釈で自説を展開する。
そうした方法論の採用はおもしろいのだが、結構ヘビーなコンテンツのボリュームになる。そんなわけで、「2冊目はないかな」が、わたしの偽らざる印象である。
<人類の誕生と欧州の食文化>
さて、本書は、人類が誕生して以来、わたしたちが食べてきた食物(農産物、素材、加工品)と食べ方(調理方法と食事の環境設定)を、歴史的に俯瞰した労作である。欧州最高の知性(ジャック・アタリ氏)が、人類の食の歴史とその進化の足跡を説明するとこのような形になる。
人類の歴史は、飢餓と戦争の歴史である。わたしたちが世界史で学んだのは、自らの群れ(初期は狩猟採集のグループ、後期は農耕文化を基礎とした国家)に与えられる、食べる権利とその勢力圏(農地)を巡る壮絶で悲惨な戦いの歴史である。
前半部分(~第6章)では、ホモサピエンスが誕生して、農耕のため(安定的に食べ物を確保するため)に定住を経て、階層社会が登場するまでの歴史を扱っている。後半部分(第7章以降)では、人類の食文化史の未来を批評的に総括している。
第1章「さまよい歩きながら暮らす」は、初期の人類が何を食べていたのかを解説している。第2章「自然を食らうために自然を手なづける」は、人類が農業と定住を始めて、安定的に食料を得たことで、自然の恵みを食する場面で、食事(食料を分け合う場面)での会話(言語)が発達したと考えている。
第3章「ヨーロッパの食文化の誕生と栄光」から第5章「超高級ホテルの美食術と加工食品」は、後に世界の中心になっていった欧州の食文化が、どのように生まれて発達してきたのかの詳述である。アングロサクソンとラテンの食文化の発展に関する詳細な記述である。
著者のアタリ氏は、アルジェリア生まれのフランス人である。どこかで、フランスの食文化が欧州でも特異な存在であり、食の頂点に君臨していることを誇りに思っている節がある。読者に対しては、貴族たちの食事の世界を覗き見させる風を装いながら、上流階級の宴席のメニューをこまごまと書き込んでいく。フランス人らしいライティング手法だ。
この3つの章で重要な観点は、欧州(とりわけ上流階級)では、食事そのものが社交の場であったことである。食事と会話は切り離せない双生児である。
食べることで会話が弾み、食事の時間は長くなる傾向にある。何を食べるかも大切だが、食事の席での会話を通して様々なことが決まる。コミュニティ内での社会的な合意が、宴席で形成されていた。
そう考えると、日本の中世以降の社会は、欧州型の食文化と同型であることに気が付く。フランス料理と日本料理の共通点は、料理の素材とプレートを美しく見せることである。素材の配色、野菜の刻み方、ソースの色合い、香りなどなど。
もちろん美味しく食べることは重要な要素ではある。しかし、日本人もフランス人も、五感(味覚、視覚、聴覚、触覚、嗅覚)で食事を味わい楽しむという文化を享受している。
<米国人の食生活とカロリー>
第6章「食産業を支える栄養学」(20世紀)では、舞台の中心が米国に移っていく。欧州人の末裔が移住した米国では、20世紀にアメリカ式の資本主義(大量生産・大量消費文化)が花開く。米国人の発明は、効率の良い加工品を中心に据えた食品産業(加工食品メーカー、チェーンストア、ファストフードレストラン)の発展を担ったことだろう。
それに対して、日本人とフランス人にとっての食事とは、「五感を駆使して、楽しく食べて視覚的に食材を味わう」である。だから、食に関する意見を述べるために、会話が重要な位置づけになる。それに対して、大規模で組織的なフードビジネスを生んだ米国人の食事は、栄養学的な観点から構成される。極論すると、会話は必要でなくなる。
わたしは、30代前半の2年間を米国西海岸で過ごしたが、そのときの米国人の第一印象は、「提供される料理をカロリー(+たんぱく質とビタミン)を計算しながら食べる人種」だった。フランス人のアタリ氏も、この章で同様な指摘をしている。
「栄養学というアメリカ資本主義の策略」という節では、グラハムクラッカーの生みの親であるフィラデルフィアの宣教師、シルヴェルスター・グラハムに、こんなことを言わせている。
「グラハムにとって、食の基準は味ではなかった。健康の良い食品、つまり、味気のない食品を食べるのが正しい食事だった」(P.173)。
それに続く節「カロリーとコーンフレーク」では、さらに極端に米国人の食に対する宣言が明らかにされている。「1880年ごろ、グラハムの弟子で化学者のウィルバー・オリン・アトウォーターは、食の栄養価を検証するために、「カロリー」という概念を食物に当てはめた」(P.174)。
「この概念(カロリー)によって、食の価値は、味、香り、食感、素材、調理法、または食卓を囲む楽しい会話の質などではなく、抽象的に表現されるカロリーという数字だけになった」(P.175)。
米国の加工食品産業は、カロリーというベース(標準)で運営されている。すなわち、味は二の次にして、できるだけ安く多くのカロリーが摂取できる食品を発明し、それをチェーンシステムで提供する。具体的な加工食品の企業名は、ナビスコ、ハインツ、ケロッグ、クラフト、マース、コカ・コーラ、ペプシコなどである。
同様なタイプの企業が欧州でも出現する。ネスレ、ダノン、ユニリーバ、ハイネケン、インベブなどである。20世紀の米国発の消費文化の隆盛によって、人類の食事は、「栄養補給のために、安い食事を手短かに済ます」に変わった。
<食の現在と未来:予言>
第7章「富裕層、貧困層、世界の飢餓」から後の3つの章では、食の現在と未来を展望することになる。
ここでのテーマは、「食の安全性」(遺伝子組み換え作物)と「農業生産部門の効率」(農薬と肥料の使用)である。食べ物を巡る効率と安全性のトレードオフに焦点が充てられている。2つのテーマと関連して、80億人に増えた世界の人口を賄うために、食料は充分に確保できるのかという課題を扱っている。
つまり、人口の増加と格差拡大のもとで、古くて新しい形での飢餓が論じられている。食料を巡る戦い、奪い合いの未来をアタリ氏は懸念している。しかし、同時に進行している地球温暖化(温室効果ガスの排出)が、飢餓の問題と関連があることも示唆されている。
つまり、安く生産・加工できる食品の背後には、温室効果ガスの過剰ともいえる排出、フードロスの問題が潜んでいる。
第8章「昆虫、ロボット、人間」(30年後の世界)は、人類の食の近未来を論じたものである。内容を要約すると、以下のようになるだろう。わたしは、アタリ氏の予言のすべてに合意するわけではないが、正しい預言もその中にはあるように思う。そのまま引用する。
(1)食糧需要を占う
「現在、世界の人口の55%は、農地や自然から遠く離れた都市部で暮らしているが、この割合は75%になる」(P.267)。
「いまから2050年までに、90億人を養うためには、世界の食糧生産量を70%引き上げなければならない。これを達成することは不可能に思える」(P.267)。
(2)これまで以上に品質のよいものを少量食べる超富裕層
食の不平等を論じた下りである。アタリ氏の予言は、近未来の食事をする人間は5つに分類できるというものである。品質の良いものを食べるのは、ごく少数の超富裕層だけになるだろう。その5つの階層とは、富裕層から順に、、
①ごく一部の裕福な美食家。
②体に良いものしか食べない食通。
③富裕層や食通の食生活を真似ようとする中間層。
④多数派の下位中間階級。工業的に生産された食品の主な顧客。
⑤最貧層。1000年前と似たような食生活を送りながら、劣悪な食品を食べる。
ブラックな未来預言ではある。背筋が寒くなる。
(3)今後の食文化の傾向
アタリ氏の記述は、とてもユニークで興味深い。順に述べて行こう。
①美食を愛する国の経済(フランス、イタリア、日本??)は停滞し、支配階級は比較的質素な生活を送る。
②(現在)世界で一番好まれている料理は、イタリア料理だが、「今後は、中国料理、インドネシア料理、インド料理が台頭するだろう」(P.272)。理由は、地政学的に見ても、人口が多いからだ。
③食は多様化する。ノマド(さ迷い歩く?)的な個食が広がり、ファーストフードなどやだらだら食べ続ける食文化が定着する(PCやスマホを見ながらの簡易な食事?)。
④アメリカの食文化が中産階級の食文化を支配する時代は終わる。なんと!ハラール食文化の台頭をアタリ氏は予言している。
⑤肉と魚の消費は激減する。人口肉や養殖の魚が増える。たぶん、そうだろう(個人的に合意)。
<結論:個食化と未来の食事の姿>
第9章「監視された沈黙の中での個食」では、一人で食べる個食が論じられている。
農耕定住民となった人類が獲得した最初の機会は、群れで食事をとりながら会話することだった。しかし、米国流食品産業の台頭は、そして、IT技術の進歩が消費のスタイルと食事の場面を変えてしまった。
その先に見える風景は、個食化がふつうになるということである。そして、わたしたちが「料理をすることを止めるかもしれない」というアタリ氏の預言がある。それを阻止しなければならない。そのために、まだ残された時間はある。
紀元前のローマ人の家には、台所がなかった。キッチンは、中世の欧州人の産物である。そして今、世界の家庭から台所が消えつつある。元祖、さ迷い歩いて肉や雑穀を食べるノマド的な生活に、私たち人類は戻るのかもしれない。それでいいのだろうか?
第10章「食べることは重要なのか」では、そうした個食から逃れるための方法が論じられている。この章の中から、節の見出しを取り出してみよう。
①農業の担い手は正しい知識をもった小規模農家
アタリ氏も、大規模農業生産と味気のない加工食品を大量生産するメーカーの存在を否定している。彼は、オーガニック農業を推奨している。
②世界の食品会社に対する規制を大幅に強化する
それはそうだろう。加工食品会社の功罪は、生産性の高い加工方法(調理方法)の発明(功)と、味気ない食事とカロリーベースの食品提供で利益を得ること(罪)のミックスである。総じて言えることは、人類の未来にとって食品産業はネガティブな側面が強い。だから、規制を強化すべきだというのがアタリ氏の主張である。
③食の利他主義
アタリ氏が言う「食の利他主義」とは、他者と自然にとって良いものを消費することは、自分にとってもよいことだと考えることである。そのために、実行すべきことが列挙されている。
・少肉多菜:できるだけ肉を減らして、野菜を主な食事にする。
・地産地消:地元の農産物で消費すると、運ばなくて済む(エネルギー消費が少ない)
・ゆっくり食べる:時間をかけて食べると、会話が弾む。消化にもよろしい
・自分たちの食を知る:素材のトレーサビリティに気を遣うこと
・食育:子供のころから、食べ物について素性を学ぶこと
・会話の弾む食卓という喜びを見出す
わたしがこの本を読んで、もっとも印象的に感じたことは、最後のいくつかの概念と主張である。
他者から、「人は何のために食べるのか?」と問われたとき、わたしの気持ちは、最後に書いてある通りである。
食べ物の素性を知り、ゆっくり、家族や友人と会話をしながら食べる。それがすべてである。食卓から、レストランのテーブルから会話を途絶えさせてはいけない。
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