【書評】三橋貴明(2019)『明治維新の大嘘』経営科学出版(★★★★)

 司馬遼太郎が大好きなわたしには衝撃的な副題だった。「司馬遼太郎の日本史」の罠。司馬史観とは、「坂の上の雲」のことだ。小国の日本が短い期間で経済的な発展を遂げ、隣国の大国ロシアと戦って勝つ。列強に伍して軍事力をつけ、最終的には太平洋戦争に突入する。そして、焼け野原からふたたび立ち上がる。大河ドラマが好むシナリオだ。

 

 ちなみに、本書が書評で取り上げるに値する著述であるかどうかについて、疑問を感じる読者もいるかもしれない。三橋氏は、メディアの評判などをチェックすると、思想的に偏りがある論者として著名だからだ。しかし、わたしの立場ははっきりしている。政治的・思想的な立場はさておき、読んでおもしろい著作は取り上げるに値するというスタンスである。

  

 ネット検索していて、久しぶりに出会った著者(娘と同じ船橋東高校卒)の作品は、おもしろかった。著者自身は、プライベートでは2018年に刑事告訴になりかけた傷害事件(10代の妻をDV)を起こしている。個人的な生活の臭いは、元マクドナルド社長の原田泳幸氏を髣髴とさせる。そういえば、原田さんはその後はどうなったのだろう。

 三橋さんは経済学者ではない。正直な感想をいえば、著述の内容には、理論的な裏付けがほとんどないからだ。おもしろい発想と驚くべき観点から議論する経済評論家である。

 それでも、本書に書かれていることは、まっとうな指摘であり分析に見える。反グローバリゼーションの立場からの鎖国主義者(TPP反対論者)で、保守的な論客と相性がよさそうな歴史観は、わたしと立場がよく似ている。ネットでよく遭遇する評論家だが、三橋さんの書籍をきちんと読んだのは初めてだった。

   

 彼の主張で興味深く感じたのは、世界の国家を2つに分類する視点である。ドグマ(検証がやや不十分な仮説)は、シンプルで理解がしやすい。

 世界を見渡すと、一方には、君主制から封建制を経て議会制民主主義へ移行した欧州諸国や日本が存在している。その対極には、皇帝制の中国やインド、ロシア、オスマントルコなどが対置される。国土が広くて多民族で構成される国家は、皇帝制をとらざるを得ない。内部を統治管理できないからだ。だから、帝国はそうした周辺国は属国として扱う。軍事的な締め付けと官僚制がそれを補足する。

 現在の中国やロシアは、後者の典型である。習近平氏やプーチンを皇帝として戴く、軍事的・経済的な帝国である。選挙で選ばれたわけでもないのに、皇帝として君臨できる正統性は、軍事力を背景にした経済力(経済的な成功)である。

 この視点から明治維新の革命を解釈すると、文明開化の意味が違って見えてくる。そこが、本書が一番に主張したいところであろう。明治期の日本は、軍事的には強兵策、経済的には豊かな国になることを目指した。そのために、国際貿易戦争の枠組みに再度、組み込みこまれていく。富国強兵による経済戦争へ突入した結果が、国際的に孤立した第二次世界大戦だった。

    

 ところで、当時(江戸時代)の2大帝国であった日本と英国(1800年推計人口:江戸68.5万人、ロンドン86.1万人)が、グローバルには潜在的に競合していた事実は興味深い。幻の「インド・ベンガル湾海戦」という妄想である。鎖国していたので、英国と日本は正面衝突することがなかった。しかし、江戸幕府が開国していれば、国内の統治を重視するよりも、資源を求めて東南アジアを超えてインド洋にまで足を延ばしたかもしれなかったからだ。

 現実に起こったことは、江戸時代の太平は、軍事技術面と生産技術面での停滞を招いたことだった。ペリーの黒船の脅威は、そのこと(ふたつの停滞)を日本人に気づかせたことである。人口が2342万人の米国に対して、日本の人口は3200万人(明治の開国直前:1840年)だった。それなのに、200年以上戦争を経験していない日本は軍事力において絶対的な劣位にあった。欧米列強に食い物にされて、清国のように英国や米国の植民地になるかもしれない。これはまずい、、、

 歴史が示している事実は、その後の軍事力の増強と、産業革命の短期キャッチアップである。軍事経済的な解釈は、三橋氏や保守論客が好きな左翼批判(戦後民主主義と平和憲法は、GHQによる軍事力の弱体化政策の結果であり、政治経済的には米国依存につながる)になる。いわく、皇国史観(天皇制の絶対的な擁護、正当性の主張)が影を潜めるわけである。その点でいえば、三橋氏は少しまっとうな保守であるが、右翼的な評論家であることはまちがいない。

 

 ところで、本書を読み終えて、わたし自身は自らの立場を再度、確認することになった。

 ①日本は、食料自給率(カロリーベース)を80%以上に持ち直すこと(フランスの農業政策に倣うべき)。換言すると、食糧安保に邁進すべきである。その他の交易品(海外依存が高いカテゴリー)の一部も、最低限の国産品を確保することが重要である。コロナ禍でのマスク不足やワクチン確保は大いなる教訓である。

 ②防衛面では、平和憲法を見直して再軍備をすべきである。中露に対して強力な軍隊を持たねば、侵略の脅威(属国への転落)は目に見えている。この2つ(①と②)はセットになっている。

 鎖国主義者である点で、三橋氏とわたしは同根である。愛国主義者なのだろう。世代を超えた文化の継承を重視する著者の主張に、わたしは基本的に同意する。しかしながら、三橋氏の政治的な活動(自民党から比例区立候補)や竹中平蔵氏(元経産大臣でパソナ役員)との討論を見ていると、アジテーションに走りすぎの感じもなくはない。

 

 最後に、歴史的な連続性に対する考え方についてコメントしてブログを終える。

 本書が指摘しているように、評者も江戸と明治との間に断層はないと考える。明治以降のわが国の経済的な発展は、江戸の経済的な繁栄を基礎にしている。稲作栽培の生産性向上や、家内制手工業による地方産品の全国流通(農工業の技術蓄積)などが、明治期の経済発展のインフラを構成していた。

 この立場は、元同僚の陣内氏(法政大学名誉教授)の著作に対する小川の書評(本ブログ)に通じるものがある(陣内秀信『水都東京』)。つまり明治の文明開化と産業革命は、江戸幕藩体制下での資本蓄積があって実現したものである。明治期のブルジョア革命の成功は、江戸の経済文化を基盤にしている。

 その後、日本が政治経済面で米国の支配下に置かれるまでは、さらに1つの世紀(敗戦1945年-黒船1853年)を跨ぐことになる。日本の経済的な繁栄は、外圧によるものであったという偏った「M的史観」は間違いである。今に至る日本人の感情をこの史観が覆っている。

 データの引用の仕方や議論の前提について、やや雑なところや論理の飛躍はある。とはいえ、本書は、偏向した視点に対する反論としては、十分に説得力がある著作になっている。少し怪しげではあるが、読んでみる価値はあると思う。