先週から、各大学の先生たちに、先月20日に刊行した『異文化適応のマーケティング』(ピアソン柳原)を郵送している。献本をするとすぐに返事がくる先生がふたりいる。明治大学の竹村正明君と中央大学の三浦俊彦君である。
とくに三浦君からは、本が到着するとその日のうちにメールが戻ってくる。「ありがとうございました!」のレスポンスがものすごく早い。
わたしにとっては、出版社が献本分を郵送しはじめたことを知る「早期警戒警報装置」のようなひとなのである。ふだんでも、彼は仕事が早いのだろう。
その三浦君から、今回はつぎのような趣旨の返信をいただいた。
「小川先生に比べ、私は依然として単著が出せない状況ですが、小川先生のパワフルさに負けないように、今年には何とかまとめたいと思っております。、、、」
三浦君は、業績の数が決して寡ないわけではない。むしろ、共著や編著を含めると、著作をたくさん出しているほうである。たとえば、和田充夫先生(関西学院大)と一緒に、有斐閣からテキスト『マーケティング戦略』を、相原修君(国際マーケティング)や原田一郎先生(地域ブランディング)とも、特定分野で共著を出版している。
にも関わらず、これまで、ひとりで書いた本がないのである。たしかに、言われみればそうだった。本人は、けっこう単著がないことを気にしていたのだ。そのとおりである。単著を持たないことは、大いに気にかけたほうがいいように思う。
有名な学者の中でも、単著がない先生は案外に多い。最近になって『消費者行動の知識』(日経文庫)で単著が出たが、青木幸弘君(学習院大学)は、長い間、共著と編著だけだった。
彼の場合も、業績がなかったわけではないが、世間一般から見ると、専門領域がわからない研究者ということになりがちになる。一流であることと、世間の認知度は全く違うのである。そのことを気にしない人ならばいいのだが、ふつうは気になるだろうし、研究者しては「ロープロファイル」(目立たない)であるから、仕事がしやすいわけがない。
小売りチェーンに例えれば、「旗艦店」(フラグシップ店舗)がない状態なのである。その研究者のどまんなかの専門分野について単独の著書がないと、研究者仲間からも世間(社会人学生たち)からも、研究者としての独自性や差別性が問われてしまうのである。
わたしは、周りの研究者や実務家、弟子たちには、会うたびごとに「本、本、単著を出しなさいよ」とうるさく言っている。最近は、わたしの顔をみると、弟子たちが、「先生、ご本のことでしょ!」と嫌な顔をされる。
逆に、成功例を紹介する。筑波大学の西尾チズル先生が、最初のご本『環境マーケティング』を出版するときに、有斐閣の伊藤真介さん(現在、常務取締役)を紹介させていただいた。東海大学でドクター論文を出してすぐ後だったので、キャリアチェンジ(専門分野を数理モデルから記述的なテーマに変える)のためにも、目立った単著が必要だった。そう考えてのアドバイスだった。
同じく、学習院大学の上田隆穂君も、論文の数は多かったが、30代半ばまでは単著がなかった。あるときに、「上田君がダントツになれるのは、”プライシング”なんだから、そのテーマで単独で本を書くべきだよ」と進言した。その後に、彼は10冊近くの価格戦略の本を、続々と発表した。
その結果は、「環境」といえば、西尾先生であり、「価格」といえば、上田先生である。ブランド連想の応用問題である。トップブランドになることで、そのブランドがカテゴリー連想を支配するのである。
だからではないが、三浦君にも、国際マーケティングか消費者行動論で、その分野の単著を期待したいのである。「看板のない先生」では終わらないように。わたしからのアドバイスである。
そのほかにも、わたしの弟子たちで、心あたりのある研究者は多いだろうなあ。しっかりね!
追記: だからといって、編著や監修の仕事が悪いわけではない。研究者としてのネットワーク作りと、弟子たちに業績を作らせるためである。そして、私の場合は、特殊な目的なのだが、身長の高さまで本を積み上げるためである。