「監訳者あとがき」ウズニエ他『異文化適応のマーケティング』(ピアソン)

 とうとう「あとがき」が書けるところに、翻訳の作業がたどりついた。昨夜遅くに、600ページの書籍の全再校作業が終わった。今朝からは、監訳者としての「あとがき」を書いていた。HPにさっそくアップする。

 監訳者のあとがき

 本書『異文化適応のマーケティング』は、国際マーケティングと異文化コミュニケーション論のいずれの分野に対しても、新しい地平を拓くことに成功した著作である。
 従来スタイルの国際マーケティングの教科書は、基礎理論が新古典派経済学(経済合理主義)と経営学(米国流マネジメント論)に内容が偏りすぎていた。対照的に、異文化コミュニケーションや消費者行動論のテキストでは、経営の視点が完璧に抜け落ちている。本書は、両者の中道を行きながら、社会心理学と消費文化論をベースに、国際マーケティングの分野に新しい視点を提供している労作である。
 監訳者のひとり(小川)による「労作」の定義は、単純に本が分厚いことである。標準的な閾値は、厚さで4センチになるか分量で500頁を超える大作のことである。しかし、一般的に、ある程度グローバルに読者を獲得できているマーケティングのテキストで、共著者の中に米国人の名前を発見できない書籍はきわめて少なくなる。そのめずらしい著作の一冊が、フランス人のウズニエ氏とアジア系オーストラリア人のリー女史の共著、Marketing Across Cultures(5-th edition)である。

 監訳者の小川が本書の原著に出合ったのは、初版が出版された1992年である。当時、法政大学の博士後期課程に、林廣茂氏(現、同志社大学ビジネススクール教授、当時、㈱ノバクション日本支社長)が入学してきた。大学院の輪読教材を探していて、林氏の研究テーマ「マーケティング技術の移転研究」にぴったりの教科書を見つけた。それが、本書の初版である。その後、わたしたち翻訳チームは、本書を「MAC」と略語で呼ぶことになるが、その中身は、ハンバーガーにコーラはなく、フランスパンとワインである。
 本書の際立った特徴は2つある。すなわち、「文化的相対主義」と「反フォーディズム」である。従来のマーケティングのテキストとは、大いに異なる立場である。本書を国際マーケティングのテキストとしてみると、多文化的な視点からは、米国発マーケティングの実践に対する痛烈な批判の書と見ることができる。米国流のビジネス思考に対する批判の言辞が、本書のいたるところに散りばめられている。
 実は、米国基準のマーケティングを快く思っていない欧州のマーケティング研究者は意外に少なくない。とくに、フランスや北欧の学徒たちにそうした典型が見られる。わたしなどは、よい意味で偏見に満ち満ちたフランス人研究者の主張やウイットに富んだ記述に、つい拍手喝采を送ってしまうところがある。

 文化的な相対主義の立場が最もよく反映されているのは、事例の取り上げ方である。米国の事例は、米国ブランドが海外で展開されている場合に限定される。本書では、欧州を中心に(東欧・ロシア圏などを含む)、アジア(インド、イスラム圏を含む)やラテンアメリカ、アフリカなどの国々の事例が豊富である。
 もちろん日本も例外ではない。第一著者のウズニエ氏は、何度か来日したことがあるらしく、本書には、日本をはじめとして、東アジアのマーケティングや消費者行動、流通システムや取引制度の事例などが、ふんだんに紹介されている。全体の約20%は、日本の事例と考えて差し支えないだろう。誤解に基づく記述も多いのだが、それは「フランス人の超日本びいき」に免じて、許せる範囲の間違いである。
 フランス人の面目躍如たるところは、画一的で紋切り型の米国人ビジネスマンに対する、大胆な皮肉やあてこすりである。そこまで書いて大丈夫かなと思ってしまうくらいに、それらは痛烈で痛快である。ジェンダー論の観点からは、大いに問題になりそうな(おそらく第一著者のものと思われる)女性蔑視的な表現などが、やや心配になることもある。しかし、それがフランス人の文化的な嗜好なのだと思って読み飛ばせば、それなりの楽しみ方ができる。
 彼らの暗黙のコメントは、以下のようなものである。マーケティングやビジネスは、文化的な前提に基づくものである。唯一無二の正しい標準化マーケティングなどというものは存在しない。文化的な多様性にこそ、人間的な価値がある。それぞれの国や文化に違いがあるから、マーケティングやコミュニケーションはおもしろいのだ。文化もビジネスも、画一化されていないことにこそ価値がある。

 この主張は、本書の第二の特徴である「反フォーディズム」とも関係している。フォーディズムとは、米国の自動車会社フォード社に起源をもつ経営思想である。自動車の製品開発と生産・マーケティングの仕組みにおいて、コスト効率を徹底的に追求する。圧倒的に市場を支配するには、単一スペックの商品(T型フォード)を格安で提供すればよい。圧倒的な安さに対して、世界はひれ伏すことになるだろうという信念に基づく経営の考え方である。
 フォーディズムの思想を、国際マーケティングの文脈に翻訳してみる。T型フォードに対応しているのが、米国流の標準化マーケティングである。フランス人とアジア系オーストラリア人である著者たちは、標準化路線に組みしない。マーケティングは、各国の消費者文化に依存しており、どの国のどこの民族に対しても、そこで暮らしている人々の好みや都合に適応した製品を必要とする。
 実際には、世界中の多くの国や文化で、グローバルにマーケティングされている多国籍企業の標準製品が流通している。しかし、そうではあっても、実に多様なローカルなバージョン(変種)を、われわれは旅行やビジネスで訪れた国で発見できる。
 単に自動車の名前やコーヒーの呼び方が違うだけではない。ハンドルの素材やベンチシートの高さ、コーヒー豆が入った袋のデザイン、豆のひき方の好みにも微妙な違いある。実態は、現地適応化が自然になされているのである。ブランド名も販売方法も、流通システムも取引制度も、本当はその国の事情にしたがっている。
 フォーディズムは、理想的な経営概念ではあるが、グローバルビジネスでは一度たりとも実現したことなどはない。著者たちはそのように主張を続ける。世界市場は、単一のグローバルマーケットに収斂していくどころか、多様性はますます高まっている。そのためのマーケティングが必要とされている。異文化理解と多様性のマネジメントがその答えであると。

 本書の翻訳を手がけたいと考えたのは、原著の初版を取り寄せてから、15年を過ぎたころである。その間、原著の英語版は4度の版を重ねていた。2006年に、筆者の研究チームが、文部科学省の科学研究費助成研究「東アジアにおけるマーケティングの移転研究」(基盤研究B)を受けることになった。異文化間(日本から東アジア)で、マーケティングがどのように移転されているのかを研究するのが、プロジェクトの主たる目的であった。それは、もともと林教授が小川研究室で手がけていた研究テーマだった。
 3年間をかけた研究は無事に終わったが、中国現地(上海と南京)でのリサーチには、もうひとりの共同監訳者である本間太一君(当時、法政大学大学院博士後期課程在籍)が、加わった。同時に、第9章の翻訳作業を担当してくれた頼勝一君(現在、法政大学大学院博士後期課程学生)も、同じプロジェクトで上海での調査に参加した。そのときの研究プロジェクトの基本発想は、本書の枠組みからの借用だった。
 その後に、たまたま本書の第5版が2010年に出版されることを知った。学部の演習でも、それまで二回ほど(第2版と第4版)、本書を輪読で使用していた。内容はおもしろいのだが、難点はボリュームだった。版を重ねるごとに分量が増えて、第4版では600頁を越える大作になっていた。さすがに著者たちも、分量のことは問題だと考えていたらしい。翻訳の申し出をしたところ、編集作業中の第5版のドラフトを電子メールで送ってきた。よりコンパクトな構成に変わっていた。幸いなことに、本文が500頁以下ならば(実際にそうだったのだが)、余分な事例や記述を削れば、日本語でもそれほど分厚い本にはならないだろうと考えた。

 日本語に翻訳したときに、それでも500頁~600頁の厚さにはなる。いまどきこのような大部の翻訳書を刊行してくれそうな出版社は限られる。これも運よく、原著の出版元である「ピアソン・エデュケーション(柳原書店)」が出版を引き受けてくれることになった。米国のマーケティングの教科書では、実績のある国際的な出版社と共同作業をする見通しが立った。
 2009年の春に、これまでに4冊を翻訳した実績がある研究会メンバー(法政大学小川研究室「土葉会」)を招集して、翻訳作業をはじめることにした。翻訳のやり方は前回と同じだった。まずは、各自の分担を決めて、基礎となる「単語帳」を作成する。つぎに、各自が3~4ヶ月をかけて下訳をする。それから、ドラフトを持ち寄って基本単語の統一を行う。このプロセスは、その後に紆余曲折があって、わたし(小川)の手元にすべての原稿が揃ったのは、それから一年後の2010年の春であった。
 監訳者(小川と本間)が14章をそれぞれ分担して、翻訳者チームのドラフトに手を入れていった。主として、本間君が前半部分を、小川が後半部分を担当した。校正原稿が仕上がってきてからは、小川とリサーチアシスタントの青木恭子が、再校原稿に手を加えて、日本語として読みやすくなるように編集を担当した。
 読者の皆さんには、以下の3つの原則について、事前にお断りしておきたい。翻訳上での原文の取り扱いについては、原著者たちに事前の承認を受けている。

(1) 訳語や文章の構成について
 本書を翻訳するに当たっては、厳密な用語の訳出よりも、マーケティングのテキストとしての理解のしやすさと読みやすさを優先させた。したがって、大学院生などが試みに、原文を逐語訳していくと、その部分は誤訳ではないのかとか、この部分は訳出がなされていないのではと、戸惑うことがあるかもしれない。
 翻訳の厳密さは、初めから無視して読んでいただきたい。読者の理解を促進するために、あえて原著にはない説明文を、それとなく挿入してある部分もある。日本人が原著をそのまま読んでも、文化的な背景が理解できないためにほとんど意味不明な部分については、文中から削除してある。また、改行に関するルールなどについては、読みやすさを優先してある。

(2) 「ボックス」や「エクササイズ」などのコンテンツの整理
 原著にある「ボックス(Box)」の事例(日本語のテキストでは、しばしば「コーヒーブレイク」「ケース」などと呼ばれる)は、およそ半分に減らしてある。日本とは文化や習慣が異なるアフリカやラテンアメリカ、欧州の事例で、日本人のわたしたちには理解が不能な事例がある。当然のことながら、そうした事例は削除した。その上で、重要度がそれほど高くないケース(Box)も、基本的に取り上げないことにした。
 また、「練習問題(Exercise)」は、全面的にカットしてある。回答のためのデータセットを参照するために、欧文のネットに接続しなければならないのだが、そもそもパスワードがなければ、日本の読者はそのサイトにアクセスできない。実行できない演習を引用しても意味がないだろうとの配慮からである。

(3) 脚注と索引、参考文献の扱い
 当初は、本文の説明だけでは、日本人読者がその内容を理解できないと思われる事柄について、監訳者たちの知識の範囲内で、各頁下に「訳注」を準備していた。しかし、原著の脚注のほとんどは、「参考文献」の引用だとに気がついた。そこで、訳注のほうは、本文中で(   )の中に、そのまま挿入することに方針を変更した。(  )の中に、「訳注」と記されることもあるが、自然に感じられる場合は、「訳注」であることを明記していない場合がほとんどである。
 参考文献の通し番号は、リサーチアシスタントの青木恭子が、原著の引用文献をソートしなおして、振りなおしてくれた。したがって、原著と翻訳書では、参考文献の番号が異なっている。翻訳書は、独自の番号になっている。これには、原著とは異なる「索引」の作成も、青木が担当した。そばから観察していても、これはけっこう大変な作業だった。
 なお、参考文献に日本語訳がある場合は、データベース検索で、なるべく邦訳書も掲載してある。ただし、この作業は、個別の論文には及んでいない。もしかして、マーケティングが専門であるわれわれには気がつかない翻訳書が存在しているかもしれない。引用論文に、実際には和訳がある可能性も否定できない。
 ご指摘いただければ、重版の際には修正させていただくことにする。ご指摘いただければ幸いである。

 本書の翻訳に参加した研究者と実務家のチーム編成は、以下にリストを掲載しておく。担当章と現在の勤務先を併記しておいた。いつもながら、わが翻訳メンバーチームの努力は相当なものだったと思う。また、一般の出版事情があまりよくないときに、これほど分厚い本を刊行する決断していただいた柳原書店と編集部のかたにも大いに感謝したい。

2011年3月20日
 訳者を代表して
 小川孔輔@市ヶ谷