経営者の勇気: タオルの内野(2)結論

 以下の取材記録は、昨年11月のコラムで紹介したタオルの内野について書かれたものである。天安門事件の直後、まだ政情不安な中で内野があえて上海に自社工場を持つに至った理由を解説している。


オリジナルの原稿は、『チェーンストア・エイジ』(ダイヤモンドフリードマン社)2003年3月15日・4月15日号に掲載されたものである(後編は未公開)。同誌には、紙幅の都合で全文を掲載することができなかったので、本コラムでは、修正後に全文を掲載することにした。

 「ある経営者の勇気ある決断」
 <リード文>
 このごろ2代目経営者を見直すことが多くなった。(株)トラスコ中山の中山哲也社長、(株)マツモトキヨシの松本南海男社長など、創業経営者的な2代目社長にお会いするケースが続いたからだろう。繊維生産の海外移転が進んでやや沈滞気味の繊維問屋街(東日本橋)で、唯一元気なタオルの「内野(株)」の3代目、内野信行社長(49歳)もそのひとりである(内野(株)については、同社のHP http://www.uchino.co.jp/ を参照のこと)。

 内野との出会いは、昨年の8月2日。13年ぶりの上海訪問がきっかけである。ハイパーマーケット「ロータス」の2階衣料品売り場で、偶然にも対面でタオルを販売している2人の売り子さんの接客を受けた。セルフの売り場で、果敢にも日本人の私に声をかけてきたのは、現地内野の派遣店員さんらしかった。彼ら(男女ペア)に詳しく話を聞いてみると、タオルの販売元は日本のメーカー内野である。中国で生産した高級タオルを日本に輸出するだけでなく、上海の地元消費者に向けて販売しようとしている。
 ロータスはディスカウントタイプのハイパーマーケットで、生鮮品の一部と家電製品は対面でも販売されているが、加工食品や日用雑貨、軽衣料品などはセルフ販売が基本である。それに対して、日本での内野(株)は、高級ブランド品のメーカーである。三越、伊勢丹などの有力百貨店内で「ウチノ・タオルギャラリー」などを展開しているタオルやバス用品のハイエンドな供給業者である。ディズニー、ピーターラビット、ジャビットくん(読売ジャイアント)などのキャラクタータオルのほかに、ジバンシー、サンローラン、ベネトンなどのブランドタオルの企画から販売までを手がけている。
 ロータスの同じ売り場で、隣に並んでいるタオルと比べると、内野が販売する商品の値段は2倍から3倍である。「この店で、本当にこの品質の商品が売れるだろうか?」というのが偽らざる素朴な疑問であった。そんなわけで、帰国後すぐに電話をして、内野の本社を訪問した。広報担当の内野昭子マーケティング・マネジャーに、率直に上海での印象を述べた。昭子マネジャーは、ぶしつけなわたしの質問に笑って答えてくださった。「そうなんですよ、勇気がありますでしょう・・・」(内野昭子マネジャー)。
 理由をたずねてみてわかったのは、そうした販売行為を指揮しているのは、どうやら若社長さんらしいことであった。

 <中国への直接投資>
 多少の解説が必要かと思う。わたしがどうして、まずはロータスの店頭を見てびっくりし、そのつぎに経営陣の説明を聞いて”あきれた”のかという理由である。通常の商売では、高級ブランド品を売る場合、現地生産した商品のうち、中国国内で販売する品物はやや品質が落ちるものを店舗に回すはずである。しかも、店舗と売り場の選択が意外であった。富裕な上海市民を相手にけっこう繁盛している高級百貨店の上海伊勢丹(市内に2店舗)のインショップではなく、大衆的な安売り店のロータスで、しかも自社ブランドとして販売しようとしていることに驚かされたのである。
 勇気ある決断は、しっかりとした戦略的な見通しがないと、軽々しくはできないはずである。そこには、明確なヴィジョンと何らかの計算が働いていたはずである。天安門事件(1989年)から数年を経ずして、内野は93年に上海工場を建設する準備を始めた。96年には工場の操業を開始している。実は、内野そのものは日本国内では自社工場を持った経験がなかった。内野が企画・販売する商品は、すべて四国のタオル産地・今治の生産者などから仕入れた商品ばかりであった。国内に工場を持たない東京のタオル問屋が、独立資本で上海に自社工場を持ったのである。
 年商約300億円(93年当時)の会社が、総投資額70億円で中国上海に工場を建設。年間国内販売額の約30%を上海工場から直接輸入している。開発区外であるから、電気、水道も自前である。通常のタオル工場と違って、紡績から染色、織りまで一貫生産の工場を建設するという事業リスクを取っている。
 そんなわけで、内野信行社長には是非ともお会いしたいと思った。その前に、まずは前年(2002年)の11月5日、内野の上海工場を訪問し、現場でのオペレーションの様子を確かめてみたいとお願いした。なぜ中国(上海)だったのか。天安門事件の直後にあえて上海に大規模な投資を敢行したのはなぜなのか。信行社長に確たる見通しがあったのか。その答えを知りたかった。

 <マーケティングカンパニー内野、ディズニーをライセンス>
 内野の創業は、昭和初期の1937年にさかのぼる。内野株式会社が設立されたのは戦後まもない47年8月のことである。創業から2代目社長の時代までの内野は、全国のタオル産地から商品を仕入れて、都内の大手百貨店や専門小売店にタオルを卸販売する問屋であった。高度成長の波に乗って大いに成功してはいたが、典型的なタオルの卸業者であった。
 もっとも、当初から自社で商品を企画する能力は高かった。45年前の1957年に、ディズニーのブランドライセンスを取得して、キャラクタータオルを販売したのは慧眼であった。いまでも新入社員募集用のパンフレットの冒頭には、「内野はマーケティングカンパニーです」と書かれている。ブランドビジネスで成功することになった契機がディズニーキャラクターであり、そのことを見ても、内野がマーケティングをビジネスの基本に据えて成長してきたことがわかる。また、百貨店のギフト用タオルを箱に詰めて販売することを始めたのも内野の発案である。
 とはいえ、基本的には、タオルの生産活動は四国や中京地区のタオル産地の業者任せであった。だから、上海に自社工場を持つことを発表したとき、タオル業界からは、驚きとともに嘲笑に近い冷ややかな反応で迎えらえた。工場運営と生産技術にほとんどノウハウらしきものを持っていない東京の問屋に、まともなタオルなど作れるはずがない。中国人に繊細な技術を移転することなどできるわけがない。そういった反応が主であった。

 <タイ、パキスタンでの合弁事業>
 「工場を持たない卸問屋が生産段階にまで関与することになったのは、85年のプラザ合意が決定的な要因でした」(内野信行社長)
 為替自由化で円高が進行していったとき、タオルの生産を国内産地にだけ依存していては、いずれにコスト高に苦しむことになる。個別企業としての事業が立ちいかなくなるだけでなく、国内産業自体が国際競争力を失ってしまうことは目に見えていた。東アジアのどこかの国に出て、海外の現地生産者と提携する道を模索することにした。現社長の内野信行がそう考えたのは、1988年のことである。当時、信行社長は常務取締役であった。
中国本土は共産党が完全支配する世界であったから、直接投資をする環境が整っていなかった。そこで、最初に現地調査を行ったのは、当時は比較的カントリーリスクが低いと見なされており、すでに自動車や電子部品メーカーをはじめとして多くの日本企業が進出していたタイであった。
 「現地では当社のにせものタオルを見つけました。しかし、立派なイミテーションが作れるということは、そこそこの技術があるということです。迷わずに合弁事業ができると判断しました」(内野社長)
 88年の7月、タイに合弁会社”RAJA UCHINO CO.,LTD”を設立した。現在でも、上海工場が量産タイプの商品を供給する基地であるのに対して、タイの合弁工場は小回りがきく商品を供給する基地としての役割を担っている。
 同年8月には、流行を取り入れながらブランド企業との提携をすすめるためにパリ駐在員事務所を、ヨーロッパの金融・貿易の中心地であるフランクフルトにバイイングオフィスを開設している。国際的な事業展開の基礎が、このときに完成している。
 次に進出したのは、パキスタンであった。原綿の産地として、20番手の良質な綿を産するのがパキスタンだったからである。91年にパキスタンの大手紡績会社、クレセントテキスタイルミルズ社と生産委託契約を結ぶことになったが、パキスタンは政情が不安定であった。いかに世界が狭くなったとはいえ、パキスタンは物流、情報面でさすがに遠すぎた。
 適地を求めて最後にたどり着いたのは、中国であった。最初に足を踏み入れたのは、原綿の産地に近い山東省である。海外に出てから5年目、1993年のことである。そこで、地元企業に生産を委託してみたが、自社が望んだ品質のタオルは作れなかった。海外のどこにいっても、望んだ品質規格のタオルが作れない。それならば、自社工場を持つしかない。信行社長は、上海郊外に工場建設することを決断した。

 <取材記録:二人の現地マネージャー>
 11月5日、晩秋の上海にしては暖かい陽気である。市の中心部を外れて北西郊外に約一時間、のどかな田園風景の中を工場視察のために手配した車が走っている。高速道路をおりて小さな田舎町を抜けると、小学校のグランドらしき空き地の脇を通り過ぎた。よく見ると「内野杯」という横断幕がかかっている。地元民のスポーツ大会を内野が後援しているらしい。そこから内野の現地工場までは約5分。おどろいたことに、道路脇には「内野通り」という標識が掲げられている。これならば、絶対に道に迷うことはないだろう(この付近に挿入:風景の写真と工場の地図)。
 まわりは田圃と畑だらけで人影がない。滑走路のような一本道の先に、大きな工場の敷地が見えた。門塀には、「上海内野有限公司」の看板。正門脇の受付で名前を告げると、立派なレセプション・ルームに案内された。豊田光洋副総経理(42歳)と陸偉雄副総経理(35歳)が、わたしたちを出迎えてくれた。
 豊田副工場長は、97年から出張ベースで現地工場の生産管理の仕事に関わってきた。99年からは単身赴任で現地駐在をはじめている。世界中どこに行っても、黙々と働く企業戦士のおだやかな顔である。にこにこ顔で筆者たちを迎えてくれたのは、豊田さんが83年卒法政大学経済学部の出身だったからであった。経済学部での指導教授は、学部長会議でいつもわたしの隣に座っている松崎義福祉学部長である。
 陸副総経理は、工場が本格稼働を始めた97年に、内野に入社している。主として、業務畑と人事の仕事を担当してきた。日系のどの工場を訪問しても、かならず合弁企業の中核になって働いている中国人がいる。陸氏はそうした人材のひとりである。

 <タオル一貫生産工場の適地>
 内野が中国への進出を決めた93年はじめには、天安門事件からすでに4年が過ぎていた。工場用地を探し上海市から営業許可が下りたのは93年10月である。信行社長の基本プランは、紡績から縫製までの一貫生産工場を建設することだった。
 日本の産地の歴史を振り返ってみると、タオル生産は中小企業でも成り立つように分業制を行なってきた。それに対して、米国は一貫生産を350日24時間フル稼働させることで生産効率を高めてきた。
 「日本のタオル産地は、国による中小企業の保護政策もあって、効率を追い求める努力を怠ってきました。だから、せめて中国では国際競争力のある生産方式を採用したかったのです」(内野信行社長)。
 だとすると、同じ場所で1千名以上の労働者を雇用する必要があった。内野の現地工場では、実際に現在約1,800名の中国人を雇っている。開発特区のなかでは、十分な数の労働者を確保することがむずかしそうだったので、経済特別区外に土地を求めることにした。
 タオルの生産には、絶対に必要とされる条件がいくつかある。労働者の確保につづいて大切な条件は、良い水が確保できることである。1キロのタオル(バスタオル4~5枚分)を作るのに、200~300キロの水が必要である。しかも硬水ではなくて、軟水がのぞましい。近くに水質のよい運河が流れていれば、タオル工場の建設場所としては最高である。
 そうこうしているうちに、企業誘致に熱心な嘉定区(地図参照)が、内野に対して特別の条件を提示してくれた。開発特区外で、電気(変電設備)、水道(取水・浄化装置)・用地(工場敷地)の確保で協力してくれることになった。現在の場所は、揚子江の支流、劉河のほとりにある。品質の優れた「白いタオル」をつくるために、必要で十分な水量が確保できる場所である。
 パキスタン、タイ、山東省。プラザ合意以降、めぐりめぐって最後に上海にたどり着いた3番目の理由は、上海の地理的な位置である。上海という場所は、江蘇省など中国の原綿産地を後背地として抱えている。他方で、主要消費地の日本とも距離的にそれほど離れてはいない。地図を見るとわかるが、上海は九州から目と鼻の先にある。沖縄・北海道と比べて、物流上のハンディキャップはほとんどない。毎月平均40フィートコンテナ35本、20フィートコンテナ40本を日本向けに海上輸送しているが、物流の問題にはまったく支障が起こっていない。
 上海は商工業のセンターである。上海そのものが大消費地であるだけでなく、この場所は古くから繊維産業が栄えた地域でもある。産業集積があるということは、紡績・縫製に関連した周辺技術の蓄積が進んでいるということでもある。たとえば、紡織機や縫製機械に故障が発生した場合、すぐに機械を修理してくれる技術者がいるかいないかで、工場の安定操業に大きな違いが出る。
 シリーズ中でたびたび紹介することになるが、ファーストリテイリングの協力工場など、上海周辺には大小様々な繊維関係の生産工場がある。しかも最新鋭のマシーンから旧式の機械まで、さまざまなタイプのものが稼働している。機械があるところには必ずサービス技術の蓄積が生まれ、そこではある一定水準の技術者が育っている。

 <何でも作ってしまう”サティアン・内野”> 
 豊田副総経理に案内してもらった工場の総敷地面積は、約7.1ヘクタール。建物の延べ床面積は5.6ヘクタールある。東洋一の紡績・タオル生産・縫製の一貫工場は、営業許可を得てから3年後、96年に日本向けに最初のタオルの生産を開始した。
 信行社長は、中国の現地工場を「サティアン・ウチノ」と呼んでいる。というのは、家具や工具、移動用の台車まで、工場内で使用している道具や設備のほぼすべてを、工場内で自家生産しているからである。多くの道具を内製化できるのは、手が器用な良質の労働者を抱えている証左である。また、何でも作ってしまうのは、「現状では、買うより作った方が安いから」(豊田副総経理)でもある。
 ”サティアン”’の入り口は、紡績工場である。世界中から集められた原綿(半分以上は国内産)が攪拌装置で均質になるようにブレンドされる。最高品質の原綿は、60台の紡績機を使って糸に撚られたあと、タオルの生産工程に送られる。タオルの生産工程では、たて糸、よこ糸、パイルの3種類の糸を重ね合わせてタオル生地を作る。両方の工程ともに、一年360日24時間稼働しており、労働者は3シフトで働いている。
 中国の優位性は、単純に労賃が安いだけではない。生産方式と操業度がコスト構造に影響を与えている。日本国内におけるタオルの生産コストを1とすると、上海内野では1/2、中国の国営企業は1/4と言われている。使用している原綿の品質、細かな品質チェックや検品作業、染色の方式(国営企業は後染め方式)などが異なるため、国営企業と上海内野はコストが約2倍に開いている。しかし、両者の間にはあきらかな品質の差があるので問題にはならない。
 深刻なのは、国内外のコスト差である。2倍の開きは、「工場の稼働時間の違い」と「分業による仕掛品の移動」によるものである。後者の要因は、発注から納品までのリードタイムにも影響を与えている。中国工場でタオルを生産したほうが、国内産地でオーダーを受けるときよりも、商品が早く納入される可能性が高いのである。
 日中間で情報システムはほぼシームレスと考えてよい。だから、東京本社からのオーダーが上海工場の生産システムに投入されると、短期間で日本の顧客に現物を納品することができる。原綿から縫製・プリント工程まで、上海工場は24時間稼働の一貫生産方式を採用しているからである。分業制をとっている国内産地には、この条件がない。仕掛品が町の中をトラックで移動している間に、すぐに1週間が無駄になってしまう。価格やスペックに関する調整コストも馬鹿にならない。
 そんなわけで、いまや細かな刺繍仕上げやギフト用の箱詰め作業も上海で行われている。繊維業界では、デザインのカスタマイゼーションに関しても国境が消滅してしつつある。国内生産では、企画段階からのトータルなクイック・レスポンスが困難である。

 <タオルは文化のバロメータ>
 生産技術を持たなかった東京のタオル問屋が、立派に工場を動かすことができるようになるまでには、それなりの苦労があった。88年に海外進出のために調査をはじめてからは、合弁や提携という形ではあるが、タイやパキスタンでタオル生産のノウハウ、とくに品質管理の技術を蓄えてきた。また、中国に独立資本で自社工場を建設するにあたっては、日本の産地から一流の日本人技術者を招聘することも試みた。
 結果としてみれば、最新鋭の機械を中国に導入し、最高品質の原料を使って、そこそこの賃金でよく働いてくれる中国人労働者を雇って、最高級の品質のタオルを作ることができた。
 「もしあのとき上海に工場を作ることを決断していなければ、内野のいまの経営はもっと別の形でむずかしくなっていたかもしれませんね」(信行社長)
 90年代はじめの最盛期に比べて、同業他社ほどではないにしても、日本国内での売り上げは落ちている。しかし、中国に自社工場をもちながら製造コストをコントロールできるようになったことで、プレミアムタオル市場では国際的にコスト優位を得ることができた。
 同じタオルであっても、使用シーンと商品に対する感覚に関して、欧米人とアジア人との間には大きな違いが認められる。欧米人にとって、タオルは”プライバシー”である。ドライユースが主体で、色の濃いものが好まれる。日本では、タオルをギフトとして贈る習慣が定着している。手ぬぐいの伝統を引き継いだウエットユースが存在しており、薄手の生地が好まれる。
 「タオルは文化のバロメータです。シンガポールで調査した経験から言えることは、タオルについては、アジアのひとたちの好みは日本人に近いということですね。華僑の人たちはワンポイントがとても好きですし、百貨店では値段の高いものがどんどん売れています」(内野信行社長)
 消費面では、中国市場は日本の定石が通用しそうな気配がある。だからこそ、上海のロータスで、対面でタオルを販売していたのである。
 現在、中国国内で販売されている内野のタオルは、全生産量の約7%である。残りは日本向けである。他方では、上海工場の生産ラインは、タオルの生産だけでなく、より付加価値の高いバスマットの製造に振り向けられている。「タオルの内野」から「生活提案の内野(Lifestyle Designing Company)」へ変貌を遂げつつある。タオル以外の売り上げは、2002年には25%を超えるまでになっている。