『マーケティング・ジャーナル』(エクセレントカンパニーを求めて)2002年9月号掲載予定

『マーケティング・ジャーナル』(エクセレントカンパニーを求めて)
「企業価値の創造とブランド:ロックフィールド30年の歩み」*1
                         
1 はじめに:異色の起業家
 <オーガナイザーとコンセプトメーカー>
 フードビジネスで成功している事業家には、ふたつのタイプがある。「オーガナイザー」と「コンセプトメーカー」である。


前者のオーガナイザーとしては、たとえば、「日本マクドナルド」の藤田田社長や「すかいらーく」創業者ファミリーの横川4兄弟などをあげることができる。オーガナイザーが得意とする仕事は、主として海外で成功しているビジネスモデル(食の業態)を日本市場に導入し移植することである。彼らの基本的なスキルは、執拗なベンチマーキングの努力と、たとえて言えば、低コストで効率のいい企業組織をつくり維持するマネジメント力である。事業成功のポイントは、トップとしての組織統率力と市場適応力になる。このタイプの経営者は50代~60代後半で、ほとんどが戦前の生まれである。
 これに対して、後者のコンセプトメーカーには、オーガナイザーとは質的に異なる創造的な能力が要求される。すなわち、コンセプトメーカーに求められるのは、これまでになかった商品や新しい業態のコンセプトを独自に開発できる創造性である。優れたコンセプトメーカーの代表格は、米国でHMR(ホーム・ミール・リプレースメント)の旗手と言われる「イーチーズ」の創業者フィル・ロマーノであろう。*2「スターバックス・コーヒー」の創業経営者ハワード・シュルツも典型的なコンセプトメーカーと言える。*3
 欧米のビジネス動向と業態開発のトレンドを模範としながら、日本人の中からも独自の事業コンセプトを提案できるコンセプトメーカーが登場しはじめている。たとえば、「ほっかほっか亭」創業者のひとりで、現在は「フレッシュネスバーガー」を経営する栗原幹雄(50歳)。「居食屋」という新しい業態を開発し、首都圏を中心に「和民」を展開するワタミフード・サービスの渡邉美樹(43歳)。2人とも戦後の生まれである。どちらかといえば、コンセプト開発力には優れているが、自らが立ち上げた事業を維持発展させるという点に関しては、やや苦戦をしている様子がうかがえる。優秀なオーガナイザーとして、いくつかの課題を抱えているせいかもしれない。米国人のロマーノやシュルツが、自らコンセプトメークした事業を組織的に支えてくれるパートナーを持っているのとは対照的である。

      《この付近に、最近の会社の業績を挿入》

 <食のプロデューサー、岩田弘三社長>
 岩田社長を「プロデューサー」と呼んだのには理由がある。単なるオーガナイザーでもコンセプトメーカーでもなく、その両方の面を兼ね備えているからである。
 この業界ではあまり聞き慣れない言葉ではあるが、ロック・フィールドは、フードビジネスのSPA(製造小売業)である。ロック・フィールドは、食材の調達から直営店での総菜の販売まで、製造・物流・販売の一貫システムを自社内に持っている。たとえば、タマネギ、ジャガイモ、牛肉などの食材は委託生産農家から直接調達されている。消費者が納得して購入してくれる、安全で新鮮な、したがって、おいしい食品(総菜)を提供するために、コロッケやサラダなどは、神戸と静岡の自社工場で前処理の段階から一貫して製造加工されている。また、おいしさにとって最大の条件である「鮮度」を保つために、工場から店舗まで食材は半製品の状態でチルド輸送され、直営店の売場で総菜に加工される。品質と効率を考えて、徹底的に科学的にシステムを管理しようとするのは、オーガナイザーの特徴である。
 他方で、年齢的には旧世代(藤田や横川ファミリー)に属するにもかかわらず、岩田のメニュー開発には、栗原や渡邉の新世代に企業家に近いセンスを感じとることができる。その意味で、岩田の感覚はコンセプトメーカーのそれであるとも言える。国内外を問わず、食の周辺で交友範囲が広い岩田は、高名なシェフたちと深いネットワークを築いている。この資質は、他者(他社)とのコラボレーションに非常に向いている。
 「自分はとくに料理の盛りつけが得意ではなかったので、シェフとして大成することができませんでした。しかし、若い頃からおいしいものをたくさん食べてきたせいか、(他人が作った)商品を評価する能力には非凡なものを持っていたと思います」(岩田)。
 料理人の力を引きだすことが上手だったという岩田は、72年の創業時を振り返って言う。
 「あれほどの一流のシェフが、よくぞ当社に来てくれたものだと思います。まったく奇蹟としか言いようがなかったですね。レストランから総菜屋に転業したわけで、ふつうに考えれば、デリカテッセンとはいっても、百貨店内で総菜を作って販売する仕事がシェフにとってそれほど魅力的ではなかったはずです」
 レストラン1号店のシェフは、いまや同社の経営幹部となっている。岩田が提案するメニュー・アイデアを、有能なシェフたちが具体的なモノの形に作り込んでいく作業プロセスは、30年間の時を超えても変わっていない。

2 草創期(1972年~1978年)

 <72年の創業:百貨店への出店>
 岩田が百貨店内に総菜コーナーを出店しようとしたのは、72年のことである。総菜をはじめたのは、欧米の視察旅行がきっかけであった。当時は、1ドル=360円の時代で、500ドルしか外貨を持ち出すことが許されていなかった。クレジットカードもない時代に、お金も現地の情報源もまったくないまま、それでもコペンハーゲンからヨーロッパ、アメリカを訪れた。とくに、印象深かったのは、パリの「フォション」、ミュンヘンの「ダルマイヤー」、ミラノの「ペック」などのデリカテッセンであった。
 ヨーロッパの食文化の間口と奥行きに驚愕して帰ってきた岩田は、(株)ロック・フィールドを設立した。パリやミラノの街で感銘を受けた、種類の豊富な総菜を自分の手でつくって売ってみたかったからである。最初の5年間、総菜部門は赤字で、レストラン経営で穴埋めをしなければならなかったほどだった。経営状態がよくなったのは、オイルショック後の不景気のころ、つまり時代が転換していく時期からである。
 当時は、百貨店で高級総菜を売るという前例がなかった。方々を走り回ってやっと見つけたのが神戸の大丸百貨店であった。1号店は、当初はぱっとしなかったが、皮肉なことに百貨店側の評価はちがっていた。物珍しさもあってか、客寄せの効果があった。数は少ないものの、たしかに裕福な層の固定客はついていたから、百貨店側の担当者の判断は「売れている」であった。
 ところが、テナント料を支払って実際に売場を運営している岩田は、ビジネスとしてはとうてい成り立っていないと感じていた。辞めて離れていこうする料理人に対しては、欧州視察旅行をプレゼントすることで、無理やりに引き留めをはかった。売上を確保するために、焼き鳥のフェアを開催してどうにかしのいでいるといった有様だった。

      《この付近に、草創期の百貨店総菜売場の写真を挿入》

 <百貨店でのMDと販売方法>
 当初の売り方は、対面ケースを用いた販売であった。食材アイテムは、サーモン、シチュー、サラダなど。コロッケなどのフライは、衣を付けた状態の半製品を持ち帰ってもらい、自宅で揚げてもらうという形式をとっていた。グラタンやシチューなども、半製品を持ち帰ってもらい、自宅で再加熱して調理するというスタイルであった。余談になるが、現在のように買ってから1~2時間で食べてしまうのと比べて、鍋で再加熱する場合はスープの量が3倍ほど多く必要となるという。コスト的にも高くついていたことになる。
 レストランの料理を高級総菜として購入するような顧客層は、裕福で所得水準の高い人たちであった。岩田が予想したように、70年代を通して日本経済が発展するにつれて、そうした富裕層がすこしずつ増えていった。「ガストロノミ」「美食家」「ユーロマルシェ」「マンジャーニ」「神戸デリカテッセン」などは、この時代に百貨店のデリカテッセンコーナーで生まれた初期のブランド群である。いずれも、高級なレストランを連想させるネーミングであった。「ガストロノミ」は、「美食家」の意味である。

 <関東地区への進出>
 1980年代に入ってから、ロック・フィールドは百貨店への進出を積極的に進めた。関東にも進出して、横浜高島屋を皮切りに、リニューアルを続けながら順調な展開をつづけた。お歳暮やお中元などギフトが全盛の時代である。テリーヌ、パテ、スモークサーモン、フランス風シャルキトリーのハム、ソーセージなど、ヨーロッパ風の高級総菜がロック・フィールのをコアコンピテンスであった。
 「当時は、スモークサーモンの食べ方を知らない客もいましたね。それでも、百貨店には高級総菜部門がなかったですから、よい素材と適切なコンセプトで商品展開していれば、商品はよく売れたものです」(岩田)
 「ガストロノミ」は、正確には高島屋向けのブランドだった。扱うMD(商品)は同じでも、そごうでは「美食家倶楽部」、伊勢丹・阪急では「マンジャーニ」、大丸では「ユーロマルシェ」、他の百貨店では「神戸デリカテッセン」と、百貨店ごとに5~6つの異なるブランド名で売場を展開していた。その当時は、各百貨店が差別化からベネフィットを得られることを重視して、別ブランドでの売場展開を許していた。
 その点で、最近になって象徴的な出来事が起こった。岩田がもっとも気に入っていたブランドネームの「ガストロミ」を展開していた高島屋から、2001年秋にロック・フィールドが撤退を決めたことである。ブランドと事業展開を巡って、同社と百貨店との関係性が微妙に変化していく兆しがみられる。

      《この付近に、ブランド発展の歴史をリスト掲載》

3 転換期:1989年~1998年

 <デイリー総菜への転換>
 ロック・フィールドの商品/ブランド戦略は、89年に岩田が「神戸コロッケ」を考えついたときに、大きな転換点を迎えることなる。庶民の日常的な食べ物であるコロッケを、それまでは高級総菜を販売していた百貨店で大々的に売り出すという思いつきであった。ところが、岩田の提案に対して、社内では誰一人として賛同するものがいなかった。
 「自分は時代の風を読める人間、つまりは、マーケッターです。賛成してくれる社員はひとりもいませんでしたが、神戸コロッケはかならず当たると信じていました」(岩田)
 岩田が感じていたのは、次のような時代認識であった。1980年代を通して、ロック・フィールドは順調に売上げを伸ばしていた。87年には売上高100億円を突破したが、経営内容をみてみると、通年で見れば好調なビジネスも、12ヶ月中を通してみると黒字月は3~4ヶ月にすぎなかった。それでよしとされていたのは、ギフトの売上比率が大きかったからである。当時はそれが当たり前と考えられていた。ピーク時にはギフトが26億円で、総売上の26%を占めていたほどである。
 創業時、百貨店に高級総菜を導入したときと同じように、岩田は「食の風景」が大きく変わる予感がしていた。「民から官へ」あるいは「部下から上司へ」といった、取引先への義理中心のギフトはそのうち否定されるだろう。ギフトとして残るのは、おそらくはパーソナルなものになる。月別の売上げ構成をみて、岩田はそう考えるようになっていた。
 「もともと嗜好的な高級品は、そのときどきの流行、季節、やってくるお客さんの好みなどによって、売り上げにはブレが大きい。それに比べて、ごく日常的な総菜は、一日に売れる量が安定している」(『プレジデント』1991年9月のインタビューに応じて)*4
 「ギフトがこんなに売れているのになぜ?」という周囲の反対をおしきって、デイリー中心の総菜へと転換を図る決断をした。こうして生まれたのが、「神戸コロッケ」である。
なお、昨年(2001年)になって、「地球健康家族」の商品価格を、岩田は突然20%切り下げることにした。そのときのロジックも同じで、クリスマスシーズンの売り上げが、前年を大きく上回ったからである。ふつうの経営者ならば、売り上げ増を喜ぶはずである。ところが、岩田は断固として、「売れすぎ現象」はロックフィールドの将来にとってマイナスだと主張した。
 年明け早々に経営陣が神戸本社に召集され、緊急のミーティングがもたれた。物日・休日と平日との売り上げの格差が大きくなりすぎたことに、岩田は警鐘を鳴らしたかったのである。熟慮の末の値下げであった。同じ時期に、マクドナルドがハンバーガーを65円から80円に値上げし、その後は客数を大幅に減らした。

 <神戸コロッケ:ハレからケへ>
 88年の秋、岩田は自らがリーダーとなって社内プロジェクトチームを発足させた。
 その当時、都市部の百貨店内への出店だけでは、将来的な成長余地に限界が感じられた。それ以上に、そもそも百貨店という小売業態自体に翳りが見えてきていた。デパートの売場と顧客に自社の商売をどこまで依存しつづけることができるのか。集客力があると思われている百貨店から飛び出して、独自に洋風総菜の専門店を展開するために編成したのが、新規事業開発プロジェクトチームだった。
 洋風総菜の路面店で販売する商品の目玉は何にすべきか? プロジェクトチームが試行錯誤の末にたどり着いた結論が、コロッケだった。いまも当時も日本人にとってもっとも日常的な商品、そしていちばんよく売れている食べ物はコロッケである。しかし、ふつうのコロッケでは意味がない。岩田たちは、素材と販売方法に特徴を持たせることにした。
 コロッケの材料は、北海道産の男爵イモに淡路島産のタマネギ、それと地元神戸で取れた良質の牛肉。ステーキレストランを経営していた岩田は、おいしい神戸産牛肉の仕入ルートを知っていた。チルド状態で成形された生コロッケを、オーダーを取ってから客の前で揚げて販売する。あつあつのコロッケは、油がにじみ出ないように工夫した耐油紙に包んで買い物客に手渡される。包装紙には、小判の代わりにコロッケを抱いた招き猫と港町神戸を象徴する船のマークがキャラクターとして印刷されていた。

 <神戸南京町の路面一号店>
 ちなみに、80年代の後半は、冷凍クリームコロッケが全盛の時代であった。それに対して、岩田が始めた「神戸コロッケ」は手作り路線だった。おおかたの社員も取引先も、岩田の路線に反対したが、あえて揚げたて・フレッシュなしょうゆ味のポテトコロッケを売り出した。タマネギの皮むきからはじまり、いろいろと余計な手間はかかるが、結果として、予想以上に消費者が評価してくれた。一時期は50億円を売り上げるほどだった(現在は約40億円の
 岩田が生まれ育った神戸・南京町に出店した1号店は、レトロな感覚の店づくりにした。店名も商品名と同じ「神戸コロッケ」。店頭には、通行人から一際目立つように派手な幟を立てた。後に百貨店内に出店するようになったとき、この幟が神戸コロッケの目印(アイデンティティ)になった。看板は黒を基調に、昔なつかしさを感じさせるレトロな黄色の袋文字。ノスタルジーを感じさせる店の雰囲気が、観光で神戸を訪ずれる人々の目を引きつけた。
 神戸異人館街に出した路面一号店の設計を受けたのは、当時まだ無名だった建築家の安藤忠雄氏(現東京大学工学部教授)であった。依頼された店舗デザインを巡って、岩田と安藤は激論を闘わせた。神戸の店がロック・フィールドとしての一号店であり、岩田としてもサインを出して人目を引きたかった。しかし、安藤は岩田の提案を猛烈に批判した。都市景観を重視するコンセプトをもったデザインが重要だと主張したのである。激しくやりあったふたりだったが、岩田はその後に世界的な建築家として有名になった安藤に、再び静岡工場を建設する際にも設計を依頼している。

<神戸ブランド:自然さと安心感>
 ブランドとしての神戸は、食の文化と地域の伝統を歴史的な背景として保ちながら、近年においてもしばしば流行の表層に浮かび上がってくる。神戸発のブランドを列挙してみる。「六甲のおいしい水」「六甲バター」「ユーハイム」「モロゾフ」「フロインドリーブ」「ドンク」「コープこうべ」「神戸大学」。神戸ブランドの中核を構成しているのは、ロック・フィールドとも相通じる「自然さ」と「安心感」である。
 神戸ブランドには、日本の他の地域にない特徴がある。それは一部分、兵庫県という地理的な位置によっている。『日本の食生活全集28』(農山漁村文化協会)によると、「本州の行政区で、南は太平洋と瀬戸内海に臨み、北は日本海に臨むという、一つの県で南北に海を擁してつながっているのは兵庫県だけである。(中略)日本標準時のもとになる子午線は明石市を通る。畿内と山陽道・山陰道・南海道にまたがり、海・山・平野・国際港と、日本の生活舞台の要素を兼ね備えた「日本の縮図」、京都・大阪の食文化圏内にあるが、古くから魚・肉(但馬牛はすき焼きに最適な神戸ビーフ)、調味料(龍野の薄口醤油、赤穂の塩、白味噌)、水のおいしい土地である。」*5
 衣の分野でも、神戸ブランドのプレゼンスは小さくない。神戸生まれの婦人服ブランドがいま、若い女性の間で人気になっている。東京ブラウス(本社:東京)は、神戸店が独自に企画した婦人服ブランド「クレイサス」を今年の春夏シーズンで12店以上出店する。アパレル中堅のビッキー(本社:神戸)は、カーデガンなどが人気のブランド「クイーンズコート」と「ビッキー」の出店を増やす(『日本経済新聞』2001年2月20日朝刊)。*6 神戸系のファッションは、大人の落ち着いた雰囲気を持っている。ここ数年そうであったように、ヴィヴィッドな原色系の東京ファッションが席巻したあとで、流行はいつもシックな神戸系ブランドに回帰していく。
 1号店の成功によってブームを巻き起こした神戸コロッケは、レジの前で顧客が長蛇の列を作り、閉店前の売り切れが日常化した。2号店の後は、百貨店内への出店を要請されることが多くなった。92年には、大阪証券取引所2部に株式上場を果たし、翌93年には、神戸コロッケだけで約50店舗。ロック・フィールド全体の売上高は、うなぎ上りに伸びて150億円を超えた。

 <ブランドの統合:「RF1」>
 神戸コロッケの大成功にも、岩田は安住することがなかった。91年には、50億円を投じて静岡ファクトリーを建設。建築家の安藤忠雄に設計を依頼した食材の一貫製造工場で、その後の99年の工場拡充では、野菜など原材料の前処理を内製化して、野菜の当日仕入・加工・出荷体制を実現した。さらに、環境にやさしい風力発電設備も整えた。現在、静岡工場の製造ラインでは、1日にコロッケ6万~9万個、サラダ10~12トン。そのほか、半加工状態のまま、全国の拠点にチルド輸送する物流網が整備された。
 92年5月には、百貨店内で展開していた洋風総菜のブランドを「RF1」(アール・エフ・ワン)に統一した。「RF」(社名:岩田の英語読み)+「F1」(エフワン・レース)の合成語をブランド名として採用することで、岩田はブランドの記号性を強調したかった。SONY、GAPなど、一流ブランドには抽象度の高いブランド名が多くみられる。コアブランドを無機的なシンボルにしておくことで、将来における業態ブランドの拡張を容易にしたかったからでもある。
 雑誌連載時(2001年2月15日号掲載)に、ロックフィールドの記事を読んだ筆者の元社会人学生(MBA)が、私宛に以下のような電子メールを届けてくれた。都心に本社がある大手ビールメーカーに勤務する彼女は、百貨店をよく利用している。ワインアドバイザーの資格を持つ彼女は、きわめつきの食いしん坊である。RF1に関する彼女のコメント:「(前略)デパ地下オタクの私は、”RF1”が大好きです。どのデパートに行っても、一番混雑しています。結構頻繁に通っても、新しいものがどんどん出てくるので楽しい売場です。」(S社勤務E・H)。

4 業態再開発期(1999年~)

 <市ヶ谷駅がおしゃれに>
 神戸コロッケは当初、路面店展開を主に考えていたが、実際には有名百貨店内(東西がほぼ半々)への出店が主体になった。うれいしい誤算ではあったが、「もっと生活者に近づいていく」という岩田の基本方針に変化はなかった。
 路面店の本格的な展開は、和風総菜の専門店「そうざいや地球健康家族」(94年)で実現することになった。その後、オフィス・ミール・サービスの「サラダバッグ」(99年)、アジアンフードの「融合」(2001年)と路面店や新規業態の開発が続いている。
 サラダバッグは、社員食堂のアウトソーシング事業である。アスクルが文房具などのオフィスサプライ用品の「ストック場」を迅速な宅配サービスで代置したように、また、キンコーズがコピー取りなどのオフィス事務作業を正確なサービスで代替したように、サラダバッグは、社員食堂の昼食をおいしくすることを狙った「外部委託事業」である。ターゲットは、都心のオフィスで働く若い女性たち。「朝しっかり食べること」を通して、彼女たちの健康増進を支援することが狙いではある。現状では、昼の売上が85%で、朝は15%である。
 価格がすこし高めに設定されていたこともあって、サラダバッグは出店直後、やや苦戦を強いられているように見えた。しかし、オフィス街でのテイクアウト需要に対応して、和風総菜を追加するなどメニューを工夫したり、量り売りを導入することで、複数のアイテムを少量ずつ組み合わせて買うことができるように、販売方法を変えた。そうしたきめ細かな努力が実って、客数も売上もしだいに増えてきている。
 印象的だったのは、サラダバッグ・市ヶ谷店(東京都千代田区:4号店)の店舗出店であった。JR市ヶ谷駅の駅舎は、2階建ての構造になっている。サラダバッグが出店する前は、何の変哲もないふつうの駅の建物だった。3年前、2階にスターバックスが入居し、さらにその年の7月末に一階にサラダバッグが出店したことで、JR市ヶ谷駅の景観が見違えるように変わった。おしゃれになったのである。
 サラダバッグの店舗レイアウトは、イートイン・カウンターが舗道から直に見えるように配置された。おしゃれにサラダを食べている若い女性の姿が、ガラス越しに通行人から見えるようになったのである。2階には、スターバックスコーヒーと「To The Herbs」。同じように舗道側からコーヒーを飲んでいる女子大生の姿を素通しで見上げることができる。市ヶ谷駅の外観がものすごく魅力的になった。

 <おいしさの革新>
 岩田によると、”おいしさ”には3つの要素が関係している。「鮮度」と「テクスチャー」と「香り」である。とくに、そのなかでも「鮮度」が大切であるという。
 「われわれが料理をおいしいと感じるのは、素材に”力”があるからです。ただし、素材の力は、時間の経過とともに急速に失われていきますから、料理をおいしく食べるには、素材のフレッシュさを維持しておく仕掛けが必要なのです」(岩田)。
 米国伝来のファーストフード文化が、おいしさのスタンダードを変えてしまったことは日本人にとって不幸なことである。鮮度がきちんと維持できるのであれば、人工的なおいしさの素は不要である。マクドナルドを代表とする米国流のフードビジネスの仕組みでは、素材の鮮度劣化を「化学調味料」と「脂っこさ」と「甘さ」で補おうとする。素材の弱さを補うために人工調味料を多用する結果、味が画一的になってしまう。たとえば、子供たちがキレてしまう原因が食事の形態や料理の味付けにあるとすれば、フードビジネスの業態改革は社会運動的な役割も担っていることになる。そうしたこともあって、ロックフィールドは、遺伝子組み換え作物を使用しないことを宣言している。
 「野菜の委託生産者さんに対して、『(病害虫を防ぐために)農薬は使ってください』とは言ってますが、残留農薬と除草剤は使わないように要望しています。基本的なポリシーとして、最低限、誰が作ったのかがわかるような食べ物をお客様に提供したいと思っていますので・・・・・・」(岩田)。

 <新業態、新立地、新商品>
 おいしさの価値観はぜったいに変わる。これからは、ヨーロッパのデリカテッセン的なおいしさから、「健康と安全・環境」がおいしさの基準になる。これを企業理念として、ブランドの価値観の中心に据えた。このため、O157、狂牛病の混乱の中でも、ロック・フィールドはブランドとして消費者の信頼を得られたと感じている。また、ギフト需要に頼らず、デイリー総菜へとシフトすることで、全月黒字化が可能になった。健全な総菜ビジネスづくりが可能になり、2000年には東証一部に上場することができた。
 「総菜はまだ未成熟な業態ですよ。30年前は、需要が限られるハレの日のごちそうでした。ロック・フィールドで現在のビジネスモデルが軌道にのったのは、ようやく5年ぐらいの前のことです」(岩田)
 継続的な変革が必要であるからと、岩田は今後は出店形態を変えていくつもりである。そごうのケースが示すように、百貨店はこのままの形では繁栄を続けることがむずかしい。また、JR東日本の場合は、鉄道事業の将来性が限られていることから、経営資源としての「駅」に注目している。恵比寿にオフィス棟・商業施設を設けて成功しているのは、そうした方向性からである。総菜業からみると、立地としての駅は百貨店以上に魅力的である。そう考えて、ロック・フィールドは、駅構内(東京駅)や駅ビル(市ヶ谷駅)に「サラダバッグ」を出店している。「地球健康家族」を駅前で路面店展開しているのも、そうした理由からである。

 <新しい価値に基づく食の時代:「トヨタ」がライバル>
 ロック・フィールドでは、3年前から、まったくの異業種である「トヨタ」と「ソニー」をベンチマークすることに決めた。岩田がトヨタとソニーを自社事業の標準ブランドに選んだのは、以下のような理屈からである。
 車の歴史を振り返ってみると、1908年にT型フォードが開発されたが、1916年に360ドルで60万台も生産されていた。しかし、結局フォードはモデルチェンジもせず、消費者の差異化に対応できなかった。1927年にはT型フォードの生産は中止になり、代わって、スタイルの差別化をすすめていたGMが浮上した。ビッグスリーの時代には、「スタイル」「モデル」「デザイン」が車の価値の中心におかれるようになった。ところがいま、車の価値観に対して、トヨタは新しい提案を行っている。「安全」と「環境」を車に求めるという価値の転換を行った。排ガスをまき散らして環境にダメージを与えきたトヨタは、自動車が社会に与えてきた負の歴史を反省し、奥田社長時代にエコカーの開発に取り組み始めた。
 同様にソニーも、1946年に創業したが、その後、世界への情報発信を視野に入れて事業を発展させてきた。企業努力でソニー・ブランドを築いてきた井深、盛田、大賀、出井の歴代ソニー経営者たちに、事業運営に関する理念があった。ソニーブランドも世界に対して新しい価値観(テクノロジー、ライフスタイル、エンターテインメント)を提案してきた。だから、ソニーも尊敬に値する企業である。*7
 イタリアメディチ家がフランスと姻戚関係をもったとき、イタリア食文化のフランス伝播が起こり、両者が融合しながらお互いの食文化を発展させてきた。食文化は基本的には融合文化である。日本は敗戦後、わずか30年で先進国からあらゆる食文化を取り入れてきた。日本の食文化は、これからも世界のさまざまな食と融合していく時代になるだろう。*8 65歳で引退を決意している岩田の思いは明快である。
「ロック・フィールドとしては、サラダを通じて「新日本食」を完成させる。日本は伝統的に、野菜・穀物・海産物が豊富な国である。日本発の食材と技術を活かした料理を、世界の消費者に向けて発信していきたい」

<注>
*1 本稿は、小川孔輔(2001)「当世ブランド物語:ロック・フィールド(前編/後編)」『チェーンストア・エイジ』(ダイヤモンド・フリードマン社(2月15日号/3月15日号)と岩田弘三(2001)「ロックフィールド30年の歴史:企業価値の創造とブランド」(法政大学ビジネススクールでの講演録/11月21日)を参考にまとめたものである。(株)ロックフィールドの歴史的な変遷と事業コンセプトについては、社長室の中野郁夫氏にたいへんお世話になった。
*2 フィル・ロマーノ(1999)『イーチーズの挑戦』柴田書店。
*3 ハワード・シュルツ(1998)『スターバックスコーヒー成功物語』日経BP社、および、Scott Bedbury (2002), A New Brand World: 8 Principles for Achieving Brand Leadership in the 21st Century, Viking.
*4 栗山良八郎(1991)「神戸コロッケ:「ありふれた総菜」はこうして「御馳走」に変わった」『プレジデント』9月号。
*5 日本の食生活全集・兵庫 編集委員会編(1992)『日本の食生活全集28:聞き書 兵庫の食事』農山漁村文化協会。
*6 「ちょっと上品な婦人服:神戸系ブランド、首都圏に攻勢」(日本経済新聞 朝刊)2001年2月20日。
*7 小川孔輔(2001)「食は「ファースト」から「スロー」の時代に:勝ち組マクドナルドが抱える成長の不安要因」『チェーンストア・エイジ』(12月1日号)