親ばか・子ばか

しばらくの間、生まれ故郷の秋田に帰省していた。地元紙の「秋田魁新聞」(8月22日号)を読んでびっくりした。東北地方では、若者が参加しやすいようにと、成人式をお盆休みに実施する。


8月のお盆に帰省した新成人たちに、同紙がアンケートを実施していたのだが、その結果に驚愕したのである。
 アンケートの中には、地方を離れて都会に出た子供たち(新成人)に、「将来、秋田に帰って暮らしたいですか?」という質問項目があった。60%を超える若者が、「将来は親元で暮らしたい」と答えていた。これがおどろきであった。
 今の子供たちは、親思いの子が多いといわれている。たしかに、わたしどものときよりは、はるかに親に対して優しいような気がする。しかし、である・・・これでいいのだろうか?
 自分の32年前を振り返ってみる。18歳で故郷を離れるとき、正直に「もう二度とこの町にはかえれんよな・・・」と汽車に乗った覚えがある。新幹線はもちろんなく、飛行機で帰るなどもってのほか、帰省の手段は夜行寝台「あけぼの」(もちろん2等寝台)か特急列車「いなほ」であった。ちなみに、当時は東京~能代は10時間以上かかった。二地点間の移動に時間がかかるのには、それなりに意味があったように思う。ゆっくりと考える時間があったからである。
 話が逸れてしまった。親とか故郷とかは、私どもの世代の人間にとっては、そこから離れて行くことが前提であった。不退転の決意と言葉があるが、出ていくわたしどもは「鉄砲玉」である。だから、もう後戻りはできない(Point of No Return)。動物にも、子別れの儀式というのがある。子供が自立できるようになったら、つまりは、ひとりで猟ができる条件が整ったなら、親と子は互いに離れて暮らすことになる。親といえども、餌場をめぐって子供と闘わなければならないからでもある。餌場の拡大と集団の利害が見事に一致した社会ルールである。
 人間にとって、とくに日本人の子供たちにとって、いまの社会環境は、たぶん暮らしやすいのだろう。本当に経済環境が過酷であれば、親も子供を自立させるようにし向けるはずである。ところが、自戒も込めて、ほんとうに愚かな親が多い。
 最近の経験で、親子関係で、「これは参ってしまった!」という例をひとつあげておく。
 秋田から帰省すると、郵便受けに一通の手紙を見つけた。たいていは、大学教授になりたい社会人の自己推薦状か、問題のある子供からの直訴状である。いずれにしても、悪い予感である。やはり・・・・ある地方にいる親御さんから、学部長宛の「訴状」であった。白い封筒を開封すると、ワープロで用紙2枚にびっしりと書かれた手紙が入っていた。成績証明書のコピーまで同封されていた。手紙の署名は、両親二人の名前であった。この場合は、たいてい母親が書いているのがふつうである。
 内容は以下の通りである。娘さんが経営学部のあるゼミに入っているが、先生と折り合いが悪くて、ノイローゼになってしまった。「勉強のことで、先生からいじめられた」(原文通り)といのが娘さんの親への説明である。心配で両親は急遽上京した。親だから、それはそうであろう。娘さん本人は、4年生で就職がすでに内定している。両親が言うには、彼女は高校時代からがんばりやさんで、勉強がよくできる子供であった。確かに、大学時代3年間の成績もすこぶるよろしい。成績表は、ほとんどがA評価である。
 その手紙は、ゼミで勉強ができない娘の窮状を切々と訴えている文章であった。しかし、学部長のわたしに何をしてほしいかについては、まったく書かれていなかった。セクハラ行為があったわけではない。ゼミというのは、生徒と教師の戦いの場である。教育のプロセスでは、精神的に子供をなぐってやることも必要である。成人した子供に対して親ができるのは、だまって子供の窮状を見守ってやることである。決して、先に回って手を差し出してはいけない。
 馬鹿親が増えていることを嘆くのは、わたしだけであろうか? わたしも3人の子供の父親である。困っている子供を見ているのはつらいけれど、「20歳をすぎたら(本当は18歳をすぎたら)、自分の問題は自分で考えろよな」と突き放すくらいのことがないと、子供は自立できないだろう。子供もそういう「子離れができない親」を見ているから、すり寄っていつまでも甘えている。どちらも自立できずに、親ばか・子ばかになってしまう。
 一度この親子ループに入ってしまうと、二度と心地よい悪循環からは抜けられない。かつては、結婚と就職がこの役割を果たしていたが、いまや子供は結婚も就職もしない時代である。豊かな時代には、経済的な自立という重石はない。親子の関係を断ち切るために必要な社会的なイベント(節目)もなくなってしまった。
 そういえば、あるとき、「アイリスオーヤマ」(ホームセンター向け商品のメーカーベンダー)の大山健太郎社長がおもしろいことを言っていた。仙台に本社があるアイリスオーヤマでは、毎年数十人の学卒を採用している。「いろんな学生が面接にくるけれど、採用してから本当に役に立つのは、偏差値の高い地元の東北大学卒の学生ではなくて、法政とか明治とかの東京私大卒の学生グループでなんですよ。先生」とうれしそうに。それは、なぜなのか?
 地元を離れて都会で苦労した方が根性がある。生活面で誰にも頼れない、困難な状況を体験をしているし、考え方が異なる多くの人と接触した経験があるから、コミュニケーション・スキルが高い。だから、営業活動やグループワークで積極的な動き回って、大いに役に立つ。
 大山さんの説明は続いた。読み書きの能力は、基本的な問題ではない。偏差値は参考にはなるが、人間力を決めるのは個人の体験の重さである。だから、法政大学なのですよ・・・というのが、彼の評価であった。しかし、せっかく評価をしていただいたわが大学が、やはり過保護な子供と無思慮な親を抱えて、四苦八苦している様を、大山さんには正直見せたくはないものである。