中国へのブランド移転物語(8) 2003.9.18(修正2003.9.30)
「”午後の紅茶”と”生茶”のブランド移転(前編)」
法政大学経営学部 小川孔輔
<リード文>
ビール、飲料など、嗜好品のブランド移転は、相手先の経済水準があるレベルまで到達しないとむずかしい。その一方で、文化的な受容性が高いときには商品ブランドが爆発的にヒットすることもある。
1996年の現地工場建設以来、一般的な飲料販売で苦戦していたキリンビバレッジ(現地法人:上海錦江麒麟飲料食品)は、2001年の「午後の紅茶」と2002年の「生茶」の投入によって、中国飲料市場でプレミアムブランドの地位を築きつつある。日本的なイメージ訴求型のブランド構築が、中国市場では受容性が高いことがわかってきた。
<猛暑・停電とSARS騒動の中で>
上海錦江麒麟飲料食品(以下では、「上海キリン飲料」と略記)の小林厚社長(総経理、49歳)から先週、久しぶりで電子メールをいただいた。昨年11月の上海訪問後にサーズ騒ぎが起こり、小林社長と再会して現地の飲料事業について詳しい話を伺うという約束を果たせないでいる。上海事務所を再度訪問できないまま、ブランド移転の原稿を書くために協力をいただけないかという申し出に対する返信である。
「小川先生 メール拝受致しました。取材の件、松島アグリ社長からも連絡いただきました。今年は、SARSに翻弄され、その後は猛暑、停電と思いもかけぬ状況が発生し目まぐるしいことです。そういった中で、悪戦苦闘していますのでなかなか面白い話にはならない部分が多々ありますが、少しでもお役に立てれば幸いです。ご連絡、ご訪問をお待ち申し上げております。上海 キリン飲料 小林 厚」
メールには悪戦苦闘中と書かれているが、小林社長からいただいたデータでは、少なくとも昨年度の飲料販売は好調に見える(図1)。投入2年目で、「午後の紅茶」の販売は100万ケース(24本入り)に迫る勢いである。昨年はじめて上海市場に導入された「生茶」は、初年度で28万ケースを販売実績を達成している。現地の末端価格は、500㍉リットル入り一本(缶またはペットボトル)が約3.5元(約53円)である。力水」と「20%果汁」等全商品を合わせると、昨年は合計で約190万ケースを販売している。日本円に換算すると、売上高で20億円(小売りベース)を突破したことになる。キリン飲料の販売地域は、現状では都市化が進んだ上海地区とその周辺に限定されている。市場規模と現地の生活感覚を考慮すると、日本的な基準では、上海キリンの飲料事業はすでに100億円規模のビジネスを展開している感覚がある。
今年に入ってから、猛暑による電力需要逼迫により各地で停電騒ぎが起こった。このことは日本のメディアでも大々的に報道されている。工場を動かしている責任者の立場としては、商品供給を確実にすることだけでも大変であったことが推察される。しかしながら、さまざまなアクシデントに見舞われながらも、今年になってからは果敢に「聞き茶」と「アミノサプリ」を新発売している。8月までの実績では飲料全体で2桁の伸びが維持できている。
<踏み石理論:台湾・香港コネクション>
日本企業が中国ビジネスで橋頭堡を確保できる場合、担当者が何らかの形で、北京・上海の政府と良好な人的関係を維持していることが多い。あるいは、当該事業の最高責任者が、香港・台湾などの華僑人脈としっかりとした接点を持っていることがふつうである。キリンビバレッジの場合、上海キリン飲料の小林社長は、85年から87年にかけて2年間、上海華東師範大学に留学した経験を持っている。留学後しばらくはキリンビール本社マーケティング部、中国支社で企画営業畑を歩くことになったが、もともとが中国通である。
小林社長のメール中で「松島アグリ社長」とあるのは、前任者で上海工場建設と飲料事業の立ち上げを担当した松島義幸氏(54歳)のことである。松島前社長は、帰国後にアグリバイオカンパニー社長に就任している。96年から上海で飲料事業を担当する以前は、台湾のキリンビール現地法人を立ち上げた実績があった。設計段階からビール事業に関わった松島前社長は、台湾のキリンビール現地法人の営業開始から6年でキリンビールの売り上げを年間2万ケース(91年)から370万ケース(離任翌年の97年)に伸ばしている。手腕を買われて、96年に中国で飲料事業を立ち上げるためにキリンビバレッジに転籍することとなった。
日本企業は中国進出にあたって、日本語が堪能な中国人を多く登用している。しかし、優秀な人材は単に日本語が話せるというだけでない。本当の強みは、日本的なビジネスの進め方に習熟していることである。興味深いことに、現地の日本企業で働く若い中国人ビジネスマンは、必ずしも中国籍を持っているわけではない。生まれが台湾や韓国であったり、中国大陸出身の香港籍であったりする。彼らに共通しているのは、日本企業で最低3~5年のビジネス経験を持っていることである。同じ中国語文化圏の香港または台湾で、日系企業のために新規事業の開拓を経験した中国人がたくさんいることに驚かされる。
これは中曽根内閣時代(1983年)の遺産である。この時代に、日本の大学に海外から多くのアジア人留学生を受け入れるプログラム(10万人留学生受け入れ計画)が奨励された。奨学金を受け日本で生活した留学生がいま、台湾や香港を踏み石にして中国本土で活躍し始めている。筆者は、この現象を「踏み石理論」と呼んでいる。台湾や香港、そして(米国や欧州ではなく)日本が、上昇志向の強い若い中国人にとって、中国本土へ戻るための踏み石になっているからである。また、日本企業にとっても、台湾や香港の市場が、中国本土での事業展開を確実にするための試験場(踏み台)になっているのである。
<錦江グループとの合弁事業>
本題に戻ることにする。1996年、キリンビバレッジは、上海地元の錦江グループと50%対50%で合弁会社を設立することを決定した。錦江グループは、上海で約20の有名ホテルを経営している他、飲料・食品カテゴリーの商品の製造と販売をも行っている企業グループである。90年代の初期、コカコーラなど海外飲料ブランドが本格的に中国に参入してくる以前は、錦江グループの果汁ブランド「紅宝」(ホンパオ)が、飲料で大きなシェアを持っていた。その後、コーラ類に押されてグループの飲料事業部門が苦境に立たされていたことが、キリンとの合弁事業を始める強い動機になっている。
キリンビバレッジとしては、すでに飲料事業を持っている錦江グループと組むことで、販売チャネルの構築など、事業基盤を一から組みあげる必要がないことをメリットと期待していた。しかし、後に述べるように、上海地区の販売チャネルはこの間に大きく変化している。実際には、キリン側の営業部隊が、新興のハイパーマーケットやコンビニエンスストアとのダイレクトチャネルを新たに開拓していくことになった。
96年末に、台湾の設備を導入し上海郊外の宝山区濾太路に工場が完成した。最大生産能力は年間450万ケースである。2002年の暮れに筆者が宝山工場を訪問したときには、186人の従業員が働いていた。宝山工場は最新鋭の設備を持った近代的工場である。かつて合弁事業を始めた同業他社、たえば、上海市場で現在最大のシェア(約42%)を占めているサントリービール(上海三得利麦酒)が、当初は合弁相手先企業(江南麦酒工場)の旧式な設備を活用せざるを得なかった80年代後半とは大きなちがいである。工場は衛生管理が行き届いており、日本の工場と比較しても場内の物流設備などは見劣りしない。
<オレンジ果汁と「力水」の販売>
97年に、オレンジ果汁を中心とした果汁飲料「20%」「100%」が発売された。初年度の売上は出荷ベースで12万6千ケース、翌年が16万4千ケースであった。投入3年目の99年には41万7千ケースまで売上げは伸びたが、当初の目論見とはちがって果汁飲料の販売は4年目で頭打ちとなった(2000年51万7千ケース)。足踏みの理由はいくつか考えられた。
「製法は日本の技術を使っていますから、キリンの果汁飲料はおいしいはずなのです。が、果汁飲料はもともとがジェネリックな商品です。日本でもそうですが、中国の消費者に対しても差別化はむずかしいですね」(小林社長)。
当初は中国を発展途上国と考えていたので、品質を強調し経済性を重視した標準的な商品戦略をとることにした。この段階では致し方のないことではあったが、「キリンブランド」を強調するなど、特別なブランド戦略を採用することをしなかった。そのために、ローカルブランドとの差別化が困難になって苦戦を強いられたわけである。
2番目の問題は、大量に商品を捌くための販売チャネルが成熟していなかったことによる。90年代の後半はまだ、販路として「パパママストア」の比率が高かった。上海周辺では、年間40万ケース以上を取り扱う卸売業者は「中堅企業」である。大量に商品を流通させることはむずかしかった。本部商談で一括納品を決めるスーパーやコンビニが台頭してくるのは、2000年に入ってからであった。
3番目は、テレビCMの制作とメディア計画を現地の代理店に任せたことである。つまり、コミュニケーション計画において「現地化戦略」を採用したということである。果汁飲料では、現地で人気があったタレントグループ「上海5人組」を起用した。また、2000年発売された「力水」(レモン味のスポーツ飲料))のキャンペーンでは、松島前社長が台湾時代にキリンビールのCMに登場させたデュオを起用した。「力水」は初年度8万ケースを売上げ、そこそこの成功ではあった。また、ピーチ味のニアウオーターの「サプリ」も発売した。が、「ニアウォーターはちょっと早すぎたのかもしれませんね」(松島前社長)。残念ながら、この路線では現地化したブランドが大ヒットすることはなかった。
1999年3月、小林現社長が上海キリン飲料の営業企画部長として着任(キリンビバレッジ国際部兼務)。2000年9月に松島前社長がビール本社に戻るにあたって、総経理に就任した。1999年に増資がなされ、2000年にキリン側が株式58%のマジョリティをとることになっていた。その前後に、大きな決断がなされた。ブランド戦略の抜本的な変更である。日本からの直接的なブランド移転(「午後の紅茶」)であり、製品コミュニケーション計画において、現地化をやめて標準化戦略を採用するという決定であった。(続く)