【創業期のワークマン】いせや流通グループ編(1985)『ワークマンものがたり』

 2年前(2023年)から、ワークマンの広報部長、林知幸さんと『ワークマンのアンバサダー・マーケティング(仮)』(共著)の出版企画を開始した。昨年の暮れ(2024年12月)に、京都で林麻矢さん(翻訳家、共著者)と3人でキックオフのミーティングを持つことになった。そのときに林部長から手渡しされたのが、『ワークマンものがたり』のコピーである。

 
 1980年の創業から8年後の1988年に、100店舗を記念して社内資料としてまとめたものらしかった。草創期のワークマンの様子が、ビビッドに伝わる資料だった。どなたがまとめたものなのかはわからない。資料の一部は、ジャーナリストの酒井大輔氏が著書『ワークマンはなぜ2倍売れたのか』(日経BP、2020年)の冒頭で引用されている。
 貴重な資料ではあるが、1988年以降のワークマンについては、土屋哲雄専務の著書『ワークマン式「しない経営」』(ダイヤモンド社、2020年)が刊行になるまで空白になっている。途中の25年間(1988年~2012年)はワークマンにとってどんな時代で、どんな経過をたどって2012年(土屋専務が三井物産から転職)に至ったのか?
 気になっていたので、その空白を埋めるため、昨日はワークマンの元人事部長、木町嘉夫さんに電話でインタビューさせていただいた。友人でカインズ監査役の神田哲宏さんからの紹介である。

 林部長から『ワークマンものがたり』のコピーをいただいとき、一緒に簡単な年表が添付されていた。ワードで作成したA4の一枚紙である。1980年~2023年までの会社の履歴である。ところが、店舗数の推移を示す数値(100店舗~600店舗を達成するまで)以外に、目立った会社のイベントがリストには見当たらなかった。
 例外は、①1987年のCM開始(吉幾三氏)、②1992年商品買い取り制度完全達成、③1997年の株式店頭公開の3つだけ。第2ステージ(1988年~2012年)のワークマンについて一番知りたかったのは、空白の25年で社内で何が起こっていたのか?そして、2012年からの8年間で飛躍する準備にとって、何が後々の遺産になったのかを知りたかった。
 わたしの推察と木町元人事部長(ワークマンには、1982年から1994年まで在籍)のインタビューから分かったことは、つぎのような要因の存在だった。もちろん、土屋哲雄専務の存在なしに、第3ステージのワークマンの大変革(2012年~)は起こりえなかっただろう。

(1)FCシステムの構築
 当初は業務委託だった店舗経営が、1982年頃からFCに切り替わったこと。直営ではなく、フランチャイズビジネスで始めたことが、初期の急成長(1982年~2008年)と変革期の業態変化(2018年~現在)を可能にした。設立の早期(1982年)に、いせやグループで初めて「(株)ワークマン」として分社化したタイミングが重要だった。
 FCシステムだったから、加盟店のFC参加モチベーションと長期に渡るビジネスの収益性にこれは大きな影響を与えた。業態として見ると「小さな市場」(1000億円?)と思われていたが、競合が追随できないほど、低コスト・高機能商品を品揃えできた点が大きい。

(2)商品の買い取り制度
 繊維関係の商取引は、一般に委託販売(消化仕入れ)である。ワークマンでも当初は買い取りではなかった。それでも完全実施された1992年以前からでも、一部の商品(PBなど)では買い取りが始まっていた。その辺の事情は、1986年に商品部に所属していた木町さんから伺った通りである。広島や岡山に、機能性の高い作業服(制服)の調達先が存在していた。その後に、調達先は、中国本土に移って行くことになる。

(3)高機能・低価格商品
 この辺りの事情は、兄弟会社のカインズHCと同様である。商品調達に関しては、(1)で述べた通りで、1990年以降は、国内の地方都市(広島、岡山、岐阜など)に中国本土からの商品が加わった(1986年ごろすでに、一部の商品は海外から調達するようになっていた)。ワークマンのビジネスサイズは、カインズなどよりさらにニッチな市場である。徹底的に低価格・高機能に特化していった。土屋専務が言うように、初期のワークマンは、「低コストオペレーションの会社」である。目立った競合は現れなかった。

(4)収益性(FC加盟店のビジネス)
 木町氏によると、「将来性のあるビジネスとして自信を深めたのは、1985年に50店舗を達成した時」だったらしい。その時点で標準的な加盟店の売上は、年商8千万円(2024年現在、1億6千万円)に達していた。現在の約半分である。
 加盟店と本部は粗利配分方式である。土屋専務の本『ホワイトフランチャイズ』(KADOKAWA、2021年)で粗利率は35%となっている。総粗利額の40%が加盟店の手取り(人件費差し引き前)で、「売上の10%」とされている(現在、標準年収1600万円)。
 ちなみに、『ワークマンものがたり』によると(3頁)、創業期(1号店)の佐々木メモでは、①売場面積12~15坪、②損益分岐点300万円/月(売上目標300万円~500万円・月)、③粗利率25%、④店舗運営:経営委託方式。ここから5年で、標準店が60坪(4倍)になり、売上目標を超えるようになった。
 5年間の変化を推測すると、①売り場面積40~60坪、②粗利率30%、③店舗運営:FC経営方式。ワークマンのFCビジネスは、地方都市(10万人商圏)で展開できれば、年収1000万円で収益性が確保で切るモデルになっていた。加盟店の募集が容易になったので、その後の25年間は、店舗数の増加で巡航速度(順調)で躍進できる下地ができた(小川の解釈)。

 <番外編>
 木町さんとのお電話で、ふたつの偶然を知ることになった。ひとつは、天安門事件があった1989年、わたしも木町さんも、事件が起こる1週間前に天安門前の広場にいたこと。木町さんは商談で、わたしは上海外国語大学の講師として北京に向かっていた。そのことから、木町さんはわが法政大学の卒業生(法学部)であることがわかった。 

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