【新刊紹介】岩田彰一郎(2026)『起業家になる前に知っておいてほしいこと』PHP研究所(★★★★★)

 2019年の秋ごろのことだったと思う。関西出張から東京に戻る途中、新大阪駅で在来線から新幹線に乗り換えようとしていた。改札口を通って前を見ると、コンコースを急ぎ足でこちらに向かって歩いてくる男性を見かけた。アスクルの岩田彰一郎社長だった。
 声を掛けようと思ったが一瞬、わたしは躊躇してしまった。岩田さんがとても急いでいる様子だったからで、わたしから声を掛けられる雰囲気ではなかった。インタビューで岩田さんとお会いしてから、すでに15年ほど経過している。わたしのことは覚えていないかもしれない。そう思っているうちに、岩田さんは反対側の改札口の方に足早に歩き去った。
 新幹線のコンコースですれ違った岩田さんは、数か月前の株主総会でアスクルの社長を解任されていた。大株主(ヤフー)と会社の運営について意見が対立したからだった。大株主が議決権を行使して、岩田さんと彼を支援している社外取締役の3人が役員を解任された。
 本書の隠れたテーマのひとつが、起業後(IPOから20年後)に訪れる難題(株式の希釈化)にどのように対処するべきかである。文京区音羽の「株式会社プラス」のビルでのインタビューを通して、岩田さんの清廉さと誠実な対応に触れた評者が感じた率直な印象である。
     
 本書は、「ライオン油脂」から文房具メーカーの「プラス」(今泉社長、当時)に転職してオフィス用品のEC企業「アスクル」を起業した、岩田彰一郎氏のはじめての著作である。2000年代には頻繁にビジネス誌に登場していた岩田さんが、気が付いてみると一冊も書籍を著わしていなかったことにまずは驚いた。本書の中にもその理由は書かれていない。
 起業後のあまりの忙しさのためなのか、いまだ成功への確信が持てなかったのか。わたしにはその理由がよくわからない。しかし、本書を通読すると、「イノベーションを連続的に生み出す実験」が大株主の議決権行使により、岩田さんたちの突然の解任に至るまで続いていたからなのだろうと想像する。
 
 出版に至る詮索は置いておくことする。以下では、本書の特徴と読み方を解説してみたい。本書の帯に二人の著名な経営学者が、推薦の言葉を述べている。
 入山章栄教授(早稲田大学)は、「尊敬する岩田さんによる、最高の経営の教科書!これは必読。」。楠木健教授(一橋大学)は、「リスクを伴う意思決定こそが経営者の仕事。決断の基準がここにある。」
 どちらの経営学者も、本書を高く評価している。とりわけ楠木さんの一言が本書の本質を的確に突いている。そうなのだ。大きな決断をするときに、経営者が直感的に判断している「意思決定の基準」をこれほど明確に示している本は見たことがない。この本の中で述べられていることは、ベンチャー企業家に当てはまるだけでない。創業から何十年も経過している、上場企業の意思決定にも充分に役立つ基準である。 
  
 本書の中で意思決定の重要な局面が、5つの章に分かれて示されている。
 「第一章 ビジネスモデルの難題」は、経営戦略を立案するに際して起こる「トレードオフ」に関わる、正しい方向の選択を取り上げている。例えば、利益重視と社会課題の解決の間にあるべき正しい選択の仕方。後者を選択することが正しい解決である、と岩田さんは述べている、など。5つの章の中で、この最初の章が一番長い。
 「第二章 事業活動の難問」では、売上や利益など財務的な指標を「KPI(重要業績評価指標)」に設定すべきではないと述べている。かみ砕いて言えば、顧客の行動と結びついている「操作可能な変数」をKPIに設定すべきだと主張している。この章は、株主優先の経営に対するダイレクトな批判でもある(この書評の導入部を読んでいただきたい)。
 「第三章 お金の難問」は、資金調達を扱っている。結論はシンプルである。調達のタイミングもあるが、やむ王得ない場合を除いて、できるかぎりVC(ベンチャーキャピタル)からの資金調達は避けたほうがよろしい。本人の経験で、苦い思いをしたこともその背景にあるようだ。
 「第四章 組織・人事の難問」では、成長・成功によって硬直化する組織になることをどのように避けるかが論じられている。フラットな「ラグビー型の組織」(オリジナルのアイデアは、野中郁次郎・竹内弘高教授)で、全員が組織目標に向かって邁進するアジャイルな組織が理想である。
 「第五章 起業家・企業としてのあり方の難問」は、カネ(資本に対する配当か、従業員に対する厚遇か)とヒト(経営者の付き合い方と従業員の処遇)について述べられている。岩田さんの結論は、「三面鏡経営」である。すなわち、株主(資本市場)の視点だけではく、従業員(雇用)と社会の3つを等分に扱いながら経営をすべし、である。
  
 本書の根底に流れている経営思想は、突き詰めて言えば「行き過ぎた資本市場の礼賛(株主資本主義の偏重)」に対する拒絶である。「三面鏡経営」に見られるように、顧客志向によるバランス経営と従業員に対する信頼の経営だろう。
 岩田さんとは、インタビューで一度しか直に話したことはない。20年ほど前のことである。東証一部に上場する直前(2004年)、文京区音羽のオフィスを訪問した際、一般社員と同じ仕様の窓際の席に岩田さんは座っていた。そのときの岩田さんの様子は、まさに本書に書かれている通りである。どこかはにかんだような、しかし明るい表情を思い出す。
 だから、評者が新大阪駅で新幹線に乗り換えるとき、コンコースを足早に歩いてきた岩田さんのことが、その後も気になって仕方がなかった。年齢は、わたしより一つ上の1950年(昭和25年)生まれである。一歳上の先輩が、本書を通して元気で活躍していることを知って胸を撫でおろしているところである。

 
 
 

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