山本朝子先生から、展示会(BIOFACH2025)の会場で本書を渡していただいた。葛飾の自宅と東京ビッグサイトの往復時間を使って、本書を読み終えた。読みにくい本ではないのだが、雑誌に連載した記事をまとめているせいなのか、全体の構成がややわかりにくい。序章あたりで、読書のためのガイドマップがあった方が読みやすいと思った。
タイトルは秀逸だ。『風景をつくるごはん』という標題だけで、本のテーマと内容が想像できる。農地とそれを取り囲む景観は、わたしたちが食べる”ごはん”(農作物とその栽培方法)の産物だというメッセージになっている。言われてみれば、たしかにそうだ。
著者の真田さんは、「農法が変化すると風景が一変する」という気づきを、イタリアの農業政策の資料を読んで得ている。それと関連している個人的な体験(徳島での農業との出会い)を語っている記述がおもしろい(第1章「美しい農村の風景」ってなんだろう」)。フィールドワーカーとしての著者の行動に共感を覚える。わたしも現場でファクトを積み上げていくタイプの研究者だからだ。
現場観察から事実を積み上げていくという流れは、「石積み」の意味とその歴史的考察を紹介した第8章「地域の環境が生み出す個性ある石積み」に繋がっていく。徳島の山奥やイタリアの農村での体験が、著者の研究の方向性を決定づけることになる。
そうした体験を経たのちに、日本人が戦後に採用してきた農法(農薬と肥料を多投入する機械化農業)と江戸時代の農法(地域内資源を活用した循環型農業)を比較する。江戸から令和まで200年間で起こった農村の風景の劇的な変化を、農産物の作り方と食べ方を軸に検証することになる。
時代に取り残されたよう見える中山間地域にこそ、農業生産と農村の生活(例えば、農作物とその加工品)をつなぐ大切な文化資源が眠っているという考え方だ。第1部「農村風景が生み出す価値」のキー概念は、農業生産における多様性の喪失と効率化の負の側面である。
そこでは、効率化のプロセスで生み出される環境破壊と、都市生活者の消費の均質化が批判的に考察されている。長方形に整地された農地に、F1種子を播種して単一で多収性の作物を作ることの弊害。戦後の農業政策で農村の風景が大きく変わったことへの反省を、EUの農業政策の転換を対置することで確認している(第2部「日本の風景を振り返る」)。
紆余曲折はありながらも、EUでは都市と農村が幸福な関係性を維持できている。理想的な農村の姿と農業政策を、著者はイタリアへの研究旅行で知ることになる。
ただし、若いころに大学で経済史を学んだ評者にとって、第2部はやや冗長に感じられる。第5章「工業化社会の進展が過疎地域を生み出した」では、産業化と過疎の問題を扱っている。つづく第6章「農業の近代化は何に対する「進化」だったのだろうか」では、近代農法と工業化がもたらした社会の変化を論じる。
この2つの章は、経済史を学んだ学生にとっては標準的な知識である。これほど詳しく論じる必要はないように思う。第7章「農家と消費者の距離がもたらした「青果物の価値」」も同様である。輸送園芸の発達と農業の近代化は、同時進行で起こる社会現象である。
簡潔に要約する方が読みやすくなるかもしれない。かなりの部分は省略してもよいのではないだろうか。全体の論旨にはあまり影響しないと思う。
第3部「これからの風景に向けて」では、「ローカル」が価値を持つメカニズムが上手に整理されている(第9章「ローカルを巡る都市と農村」)。続いて、農村の風景を守るために実施すべき具体的な提案がなされる(第10章「社会システムを変える小さな行動」)。中山間地の農地を「公共財」として位置付けることなど、第3部ではいくつかの重要な指摘が含まれている。
ただし、著者が使用している「ローカル」という言葉に、わたしはやや違和感を覚える。それは、列島のほとんどが森林に覆われている日本ではあっても、農業生産の6割は平地で行われているからだ。秋田の田舎で育った幼少期の体験からは、都市に対置される農村は必ずしも中山間地ではない。農業を営んでいる地域の半分以上は、稲作や野菜・果樹を栽培する平地である。
わたしが子供の頃に見た農業は、江戸時代の循環型農法に近いものだった。近代的な多投入型の農法に転換したのは、高度経済成長期(1970年代)に入ってからだったと記憶している。そんなわけで、わたしの認識は、ローカルで農業を営むことの困難の多くは、平地で耕作する農家が抱えている悩みの類そのものである。
生産額で6割を占める平野部の農地は、そもそも特別に付加価値を生む場所ではない。地域間での価格競争やブランド間の戦いも激烈である。筆者の議論は、棚田や傾斜地の畑を念頭になされているが、中山間地域での産出量は、農業生産全体の4割である。差別化もしやすいし、それほど簡単ではないだろうが、それなりに独自性を打ち出すこともできる。ないよりも生活文化的な際立った特徴を持っている。
農村の風景や栽培作物についてもっと深く議論がなされるべきは、日本中どこにでもある場所での農業生産ではなかろうか。グローバルな価格競争や国内自給率が問題になるのは、農地で大きな面積割合を占めていて、生産性を高める可能性を持った平らな土地での農業である。農地の集約や生産性の向上を考えないと、グローバルな競争で農業で経済的な持続可能性を維持できないだろう。
本書の主張は、中山間地での農業を議論するときは正しいと思う。美しい風景を守るためにどうすべきかという提言には、疑問を差しはさむ余地がない。しかし、それ以外の場所で農業を営むケースでは、もう一つの田舎(=平野部)に住んでいる農業者の視点が抜け落ちてしまう。
日本では、「ローカル」(田舎)は2種類ある。片方の田舎(=中山間地)が危機的な状況にあることは、本書が示す通りである。それでも、その解決方法については、著者がいくつかの提言してくれている。
より深刻なのは、平野部に広がる農地とその耕作者たちの未来である。生産性を高めることができるのは、こちらの場所での努力に掛かっている。その風景をどのように変えていくべきかについては、今のところ妙案が示されていない。農村の風景も、平野部に隣接する山や海の景観も、文化遺産にはなりえないからだ。
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