30年位前から定期購読している雑誌がある。『ニューズウイーク日本語版』である。留学中に現地で読んで以来、帰国後も欠かさず日本語版を読んできた。BusinessWeekの方は数年前に定期購読を辞めてしまったが、こちらは継続して読んでいる。今月は注目の特集記事があったので、書評欄で紹介することにした。
ニューズウイークは、米国でもっともリベラルな雑誌の一つである。民主党寄りの雑誌で、トランプ政権の時は「反トランプ」の急先鋒だった。とはいえ、その論調は思想的にリベラルだけでなく、自由主義を信奉する人々に対しても、情報提供や社会分析面で中立的であると感じることが多い。
同誌のライターたちの姿勢は、シンプルに民主主義の信奉者である。つまり、自由競争(投票による選挙制度も含む)やオープンな情報開示が、政権が交代可能で平等で自由な社会をもたらすという考え方である。
ただし、ごりごりの偏狭な自由主義者の雑誌ではない。筆者が思想的に中立だと言ったのは、その客観性を指している。
12月7日号の表紙を見て、おやっと思った。リード文は、「習近平が主導する21世紀の共産主義運動、思想統制を強め孤立に走る、独裁者の真意はどこに?」である。そして、特集のテーマは、「文化大革命2.0」である。
文化大革命1.0は、言うまでも、毛沢東の中国共産党誕生の時代を指している。思想的に扇動された紅衛兵たちが、反共思想(自由主義勢力に与する反共分子)に冒されているという罪で、無垢の市民を攻撃した。中国共産党も、多くの民衆を死に至らしめた事例として、鄧小平時代には文化大革命の罪を自省している。
それに対して「文化大革命2.0」のほうは、現在の習近平の共産党政権の時代を指している。毛沢東と習近平の類似と対比が、特集記事の縦糸である。今回の特集記事で優れているところは、ありがちな政治的・経済的な分析にとどまっていないことだろう。社会的・技術的な側面にまで、中国共産党の統治のあり方に踏み込んでいる。
第一に、政治面の分析で、共産党存立の社会的な基礎が「官僚制の成立」(科挙の制度:598年~1905年)にあることを指摘していることだ。ちなみに、日本の国家公務員制度は、中国官僚制のコピーである。皇帝(権力者)は革命により交代しても、1300年間(隋から清の時代まで)、中国では官僚制は綿々と維持されてきた。
毛沢東の中国共産党が登場しても、実は官僚制だけは生き延びている。この制度がまた、習近平の共産党を支えているセンターピンでもある。特集を読んで、そのことに改めで気づかされた。一人の人間だけで、13億人以上の人口を持つ大国を牛耳ることなどできない相談である。そこには、権力者を支える共犯組織があるはずだ。
習近平政権内の動向は、対外政策(外交的な情報発信)を見るだけでは不十分である。共産主義を中心に据えた官僚制度が、どのように機能維持されているのかを分析する必要がある。その意味で、今回のような記事は、目から鱗だった。もっと深い分析をする論客が、このあときっと現れるだろう。
現代中国政治の専門家、デービッド・シャンポー氏もその一人なのだろう。近著『中国の指導者たちーー毛沢東から現代まで』。 そこでは、歴代5人の中国共産党のトップ(毛沢東、鄧小平、江沢民、胡錦涛、習近平)が取り上げられている。結論は、独裁者が政治を変えるわけではない。「中国を動かすのは、暴君の性格と野望ではない」である。
毛沢東も習近平も共通な統治基盤(共産主義官僚制)のおみこしに乗っているだけという鋭い分析である。
習近平の文化大革命2.0を観るときの2番目の視点は、50年前(1.0)から中国社会の変化を見ることである。経済的に豊かになった中国は、鄧小平の時代には自由主義社会がもたらしてくれた製造技術や会社組織を運営するノウハウを、「管理された自由主義の枠組み」の中でコントロールしていた。
鄧小平の有名な金言がある。「黒猫も白猫も、ネズミを捕るのは良い猫だ」。この言葉は、共産党のトップでありながら、鄧小平の現実的な姿勢を象徴している。豊かにならなければ、国際的な発言力を高めることができない。鄧小平は、管理された自由競争社会の覇者(IT企業家と国営企業のトップ)が、富と権力を掌握する中国の現在の姿を予想できなかっただろう。
内部的な権力闘争は、外からはうかがい知れない。微妙な政治的な綱引きが行われているはずである。そうしたドラマは、自由主義社会の中で生きているわたしたちには開示されない。共産主義社会では、市民に投票権はない。共産党内での派閥均衡や上層メンバーの排除が、政権担当者を決める。党内部でトップがどのように選別されるのかはわからない。
この点でいえば、日本共産党も何を基準にトップが選ばれているかは、外部者には知らされれていない。日本共産党は、国政選挙では民主的な選挙を支持している。なのに、自党に関しては自由投票という制度をとらない。やや話はそれてしまうが、日本共産党について、わたしが昔から「なんとなく不思議な政党だ」と思っていることがこれである。
結論である。文化大革命1.0も2.0も、権力者の選び方は基本的に変わっていない。独裁政権のトップ継承は、選択プロセスが隠れて見えない。だから、蓄財や個人的なスキャンダルなど、自由主義社会でもライバルの追い落としに使われている手段が有効に見える。皮肉なことに、この手段の採用は、両方の社会で共通である。ちがいは、選挙制度が絡んでいるかどうかだけである。
3番目の視点は、権力者と一般民衆との距離感覚と富の配分についてである。毛沢東の時代(1.0)は、経済的な分け前を分配されるお土産は、庶民にとっては大きな問題ではなかった。当時の中国は、欧米列強に食い物にされ、庶民は生活に窮していた。だから、庶民の関心事は経済には向かわず、社会的なカタルシスの矛先は政治に向いた。
しかし、2.0の時代での人々の関心は、経済的な豊かさ(消費と投資)と自由なサービスの享受(旅行やゲームが典型的)にある。一般市民の経済的な豊かさ(平等な富の分配)と、経済をドライブする起業家的なエネルギー(上昇へのインセンティブ)が持続可能かどうか?
2.0の経済システムが、この2つを同時達成できるかどうかである。そのバランス維持が難しくなっていることが、革命2.0の推進者である習近平のアキレス腱である。
社会的な側面(消費)を見てみよう。特集記事では、庶民のふたつの関心事が取り上げられていた。オンラインゲームと学校教育(さらに言えば、アイドル文化の隆盛)である。なんのことはない。西側社会からの「文化的な汚染」が、ITシステムを介して中国社会に移植されているのである。
任天堂やソニー、秋元康のAKBやジャニーズが元凶である。それはさておき、豊かになった社会では、個人の私的な趣味が容認され、自分たち子息への投資(学習塾)が普通に行われる。それは、バリューフリーな思想の発露でもあり、社会的な成功への自由の確保という社会観から来ている。
自由競争が社会を活性化して、新しいイノベーションを生み出す。そのためには、①人々の異なる価値観(多様性)を容認すること。②教育への個別投資が容認される。前者は、中国共産党的な価値観と反している。つまり、正しい道徳的な思想は一つであるという一神論的な価値観に反する。後者については、自由で行き過ぎた教育投資は、社会の不平等を促進する。
つまり、文化大革命2.0が目指しているのは、①多様性の容認から単一で共通の価値観への切り替え(押しつけ)と、②平等な社会を実現するための個人にょる過度な教育投資の抑制である。
慎重に観察すべきは、2.0の習近平では、①と②が政敵を追い落とす手段として利用された過去があるという事実である。本音(理想の世界の実現)なのか、建て前(政策的な手段)なのか、よくわからないところがある。だれも先が読めていないのであり、ニューズウイークでも、問題点の指摘だけに終わっている。
特集記事の最後は、ジャーナリストのキャロライン・カン女史のインタビュー記事で終わっている。「元紅衛兵の伯父に、今も後悔はない」というタイトルが衝撃的である。リーショイという名の元紅衛兵の、その後を追った物語である。文革の狂気に飲み込まれたリーショイは、(紅衛兵時代のつるし上げなどについて)間違ったことはしていないと現在も言い張っている。
インタビュー記事は伝えている。鄧小平時代には、党として行き過ぎた「反自由主義思想運動」について反省した。しかし、平均的な民衆の心は、いまだ純粋である。権力闘争のための民衆扇動運動を純化して、いまだ信奉していることを知ったことは驚きである。毛沢東も妻の江青も、間違ったことはしていない。もちろん自分たちの過去の暴挙についてもである。
ということは、若い世代(20代~30代の文革を知らない中国人)と文革世代(60代~)には大いなる断絶があるという推論が成り立つ。両者の中間世代(40代~50代)は、中国社会の転換期に豊かさを享受できた世代である。習近平を支える実務官僚たちは、この時代に、主として国営企業の発展によって利益を享受してきたはずである。
共産主義社会でも、官僚制度は生き延びてきた。だから、現代の中国社会に、代替的な制度が生まれる可能性はなさそうだ。とすれば、文化大革命2.0の時代にあっても、権力者が中国社会の帰趨を決することはないだろう。わたしには、ニューズウイークが暗に読者に伝えたかったのは、この視点ではなかったかと思う。官僚制度(統治思想)がどちらを選択するのか?
別の視点から、今の中国経済を見てみる。文化大革命2.0が突き付けている課題は、中国が国際社会から孤立しても、それでもなお独自の政治経済体制を維持できるかである。自由主義社会でも、資本の論理で社会を動かすことが必ずしも人々を幸せにしないと感じている民衆も存在する。それは、欧州に典型的に見られる傾向である。右傾化と専制主義国家に反転する可能性もある。
興味深いことに、わが日本の社会はといえば、自公政権が政権交代勢力に代替されると思いきや。若い世代(20代~30代)では、保守化が進行していることが今度の総選挙で判明した。左翼的な思想を信奉する世代(学生運動を経験した60代~)は、中国の文革世代と政治的なセンチメントが共通していることもおもしろい。
わたしたち世代は、戦後すぐに生まれて経済的な豊かさを享受できた。それと同時に、左翼的な思想の洗礼を受けた。60年代から70年代に大学教育を受けた世代は、豊かさで自由でなおかつ平和な時代を過ごすことができた。対照的に、同じ世代の中国人は、極端な思想的洗礼を受けたが、経済的な豊かさは享受できなかった。それが、リーショイという名の元紅衛兵のいまの立場を説明している。
習近平は、年齢的には紅衛兵世代に属する。だから、毛沢東の1.0の時代を否定はしない。思想的に政治的に、習近平は中間の権力者3人を飛び越えて、最も毛に近い人間ではないのか。あきらかに時代を遡ろうとしている。その成否は、独裁制度が持つ硬直性を打破できるかどうかにかかっている。