昨日(3月24日)は、駅前の「寿司ダイニングすすむ」さんに4人が集合した。わたしが声がけしたのは、園田健也さん(小学館)と岩崎達也さん(関東学院大学教授)のふたりである。小学館の漫画雑誌で有名になった漫画家さんのことで、ふたりとLINEでやり取りをしていた。
岩崎先生の書籍を出版するため、わたしの本『しまむらとヤオコー』の編集担当者だった園田さんを岩崎さんに引き合わせた。LINEでふたりとチャットをしていて、別れ際に「それでは、今度はこの件で、小川先生のところのお寿司屋さんで(対面で)」となった。
いつの間にか、下町の寿司屋での会食の日程が決まっていた。同じ時間帯に、中塚千恵さん(元院生、東京ガス勤務)とわたしがLINEでやり取りしていた。中塚さんは、いまは岩崎先生が所属する大学で博士課程の院生である。そんな縁から、中塚さんも3人の会食に加わることになった。
小学館と日本テレビは、女性漫画家の自死について当事者である。漫画家さんは、小学館の漫画誌に連載をしていた。原作が書籍化されたあとで、日本テレビがドラマとして脚本化したからである。どちらの会社の名前も、テレビや新聞の報道では頻繁に登場している。
一人の人間が自死を選んだことを話題にする場所として、下町の鮨屋がふさわしい場とも思えない。しかし、お二人が久しぶりに会ってみたいと思ったのは、漫画家さんの事件がきっかけでもあった。お互いの仕事のいまを知りたいというニーズも、お互いにあったのかもしれない。
鮨屋のテーブル席で4人が議論した内容を、個人のブログで取り上げることは適切な判断とも思えない。だから、議論の詳細を公開することは避けることにする。とはいえ、そこで話された一般論をひとつだけ紹介しておきたい。
人間の自死にいたる過程についての議論することは、ずいぶんとセンシティブな話ではある。事件についてのわたしたちの共通の見方は、「広い世間に向けて、個人的な事情を含めて公開してしまうメディアとしてのSNSの存在が、彼女を自死に追い込んだ」という結論だった。
不特定多数にメッセージを届ける機能をもったSNS(この場合は、X(旧ツイッタ))の存在が、心理的に弱った人間の立場(女性漫画家)を危うくしたという見解である。SNSを通してメッセージを発する側は、自身の見解をペナルティなしに誰にでも露出できる。
しかも、少し前までは、かなり緩い形で匿名性が担保できていた。いまは発言内容によっては、「中傷や侮辱に当たる犯罪」と認定されることもある。さらには、刑事罰で訴追される可能性もあるが、それでもメッセージを発信する側は、論争の対象になる個人の側よりも立場が強いことに変わりはない。
防御する側は、相対的には弱い立場にある個人である。SNSというメディアの特性を考えてみるとそこがよくわかる。自己主張のために攻撃する側の発信者にとって、「メッセージを誇張さえすれば、伝える世間をいかようにでも広く設定できる」のである。
SNSでは、瞬時に広い聴衆にメッセージが伝わってしまう。正しいか誤っているかは、この際は問題にならない。内容の真偽はそれほど重要ではない。メッセージの衝撃性(インパクト)だけが、伝達の有効性や効果にとっては重要だからである。
伝わる強度が極端になるという特性のため、SNS上で攻撃に晒される側の立場は、きわめて脆弱なものになる。なぜなら、メッセージの届く範囲があまりにも広いからである。SNSは「脅迫のための道具」として機能している感がある。
小さな個人がターゲットにされるときは、公衆の面前で自らのプライバシーがあからさまになる。これは、ふつうの人間にとっては心理的な脅威以外の何物でもない。しかも、防御する側の権利を守ることは実際的には不可能である。一旦、情報が世間に開示されてしまえば、後々のペナルティはほとんど意味をもたないからである。
女性漫画家の場合にも、このケースが当てはまっていたと思われる。個人的な事情はあったにせよ、最初に発信された意見の正当性は、一般大衆にとっては問題ではない。公開された情報が後々に誤りだとわかったとしても、世間はその事実を修正することはない。「誰かに攻撃された」という事実だけが残ってしまうからである。事実の取り消しは、この場合は非常に困難になる。
例外と言えるのは、元厚生労働省の官僚だった村木厚子氏の事件くらいだろう。この事件については、人権派の村中弁護士の貢献が大であるが、それは刑事側の失策も絡んでの幸運が起こっからだった。
このように考えてくると、SNSでは「世間を広くしてしまうこと」が問題だということに気がつく。この問題から逃れるためには、世間を狭く設定するようにSNSの機能を修正するしかないだろう。
コメント