一昨日から咳が出て、昨日は寝込んでしまった。コロナでもインフルでもなさそうだ。めったなことで仕事を休むことはないが、昨日は朝7時半からの消防団の「震災出動訓練」(情報受発信と放水訓練)に参加できなかった。咳が激しく出て、体がまともに動かない。わたしがいると、第11分団のみなさんに迷惑をかけてしまいそうだった。
その後は、午前10時に消防訓練の場を抜け出すはずだった。しかし、自宅から接続を予定していた「マーケティング・サイエンス学会(法政部会)」のリモート会議も欠席するはめになった。主催者の豊田君(法大教授)には、ぎりぎりでメールで連絡をしておいた。
病気で体が動けなくなったのか、本当は動く気力を失ってしまったのか。どちらが真実なのかは、自分でもよくわからない。少なくともベッドから起き出して、寒風の中を北公園に向かうほどの体力はなかった。来週の広島・大阪遠征が控えている。これがなければ、リスクを冒すこともできただろうが。
もはや無理が効かない体である。年相応に老いていることは自覚している。いやいや、世の中のための過剰な頑張りは、そろそろ命に係わることになりそうだ。家族が迷惑をすることになるだろう。
定年から1年半が過ぎて、大学院と学部の授業がなくなった。しかし、それ以外は、ここまでは仕事を減らすこともせずに来た。それどころか、去年の11月1日からは、本田消防団の新入団員になった。また、新潟県糸魚川市で本わさびのプロジェクトをはじめるなど、成果は出ていないが新しい仕事が加わっている。
定年前に大学院で始めた「アフターゼミ(卒業後の院生指導ゼミ)」を、新しく開設したオフィス(@神田小川町)で継続している。毎月のゼミ開催のための準備、発表者や事務所(森田ママ)への連絡など、慣れない事務作業に気分的に忙殺されている。
そして、私小説を刊行するまでの約1年半は、作家への転身のため、原稿の執筆と本の出版に向けて時間を多くの投入してきた。ここまで充分に時間をかけて頑張ってきた。このへんが気力と体力の限界点かもしれない。無理はいけない。そろそれ仕事のやり方を転換するタイミングだろう。
一方で、傷んだ足の一時的な回復もあり、10Kmを中心にエントリーレースを増やしてきている。ハーフマラソンへのエントリーは少なめにしている。全般的にやや頑張りすぎもあり、ここにきて体力と気力がダウンしている。
10月末で、下町に引っ越して5年目に入った。かみさんが5月で都内の百貨店を定年退職したこともあり、孫の世話が本格的にはじまっている。わたしは料理への参加は以前ほどではないが、洗濯やゴミ出しには適度に時間を使っている。ここだけは、時間の割り当てを削れない。
さて、いま午前11時を過ぎた。ようやく起き出して、このブログを書いている。寝込んでしまったので、二日間は、時間がたっぷりあった。布団の中で、この1年半の出来事を振り返っていた。反省する点が多い。最大の問題は、新しいことにチャレンジするために、無理を承知で動きすぎたことかもしれない。
心身の疲労(感)も、この辺りから来ているのだろう。先月23日で、満72歳になった。現役のときのように動き回ることは、もはや無理のようだ。大学教授だった昔とは、若い人たち(元学生や院生)に対する接し方も、従前とは変えなければならないのかもしれない。
むかしのように、教授だからと偉そうにしてはいられない。いまは何の権限もなくなっている。配分すべき資源も持ち合わせていない。となると、仕事の進め方も、おのずと変えていかなければと思う。
本日の結論である。
振り返ってみると、この一年半は、ずいぶんと無理を重ねてきたように思う。仕事も人間関係も、この際は一度、ご破算にしてみるのもいいのかもしれない。仕事はもっとシンプルに整理して、投入する時間の優先順位を改定することにしようと思う。
もう充分に老境に入っている。同年代の坂本龍一教授や伊集院静氏も亡くなった。仲良しだった先輩たちや親しい友人も、病人が多い。鬼籍に入る目前にいる。自分も、明日のことはわからない。せっかく物書きになったのだから、そこを伸ばしていくべきだろう。集中的に時間をそこに投入する。
無理なく静かに、マラソンのレースをゆっくり走ることは続けよう。家族や親しい仲間たちと、残された時間を大切にしたい。