【柴又日誌】#25 41年目の結婚記念日@とうふ屋うかい、芝公園

 かみさんが20歳、わたしが26歳のときだった。1979年2月24日、板橋区常盤台のバプティスト教会で結婚式を挙げた。秋田の友人で、銀座ミキモトに勤務していた青山顕くんが、教会での挙式から披露宴まですべてお膳立てをしてくれた。持つべきものは、頼れる友達である。彼なしに、わたしたちは結婚式をあげることができなかった。

   
 わたしは法政大学の助手で、かみさんは某都市銀行の為替部門に勤めていた。人形町支店に勤務していたので、わたしはボーナスをはたいて買った中古のアウディ(S90)で、銀行の近くまでば迎えに行っていた。デートの時に乗っていたのは、13年物のドイツ車。ボディカラーがライトグリーンだったので、まさえさんの職場でわたしは「みどりさん」と呼ばれていたらしい。
 いまでいう「さずかり婚」である。結婚式には、どちらの両親の姿もなかった。挙式後の披露宴は寿司屋の2階だった。両方の兄弟姉妹や高校時代の友人たち、大学や職場の同僚たち30人ほどが集まってくれた。ふつうの結婚式で招待されるはずの親類縁者などはおらず、出席者の平均年齢は25歳だった。
     
 式を挙げてから5カ月先の7月11日に、長女の知海(ともみ)が生まれた。「ずいぶん早産ですね」と、友人たちからしばらくの間は揶揄されたものだ。その後も、さずかり婚の恩恵は続いた。
 ともみの2年後に長男の由(ゆう)が生まれ、5年後には栗坊主のような真継(まつぎ)が続いた。人間の誕生はそこまでだったが、しばらく間を置いてから、わが家に突然の幸福が舞い込んだ。事情があって日本橋三越をを追われた招福亭マーニーが、ある日、わが家の一員になったのである。
 招き猫のマーニーがわが家に緊急避難してきた直後に、次男の夫婦が結婚を報告するために白井にやってきた。ただし、今度は、子供たちの結婚式に両方の両親が招待された。家族の歴史は、そのままの形で繰り返されるわけではない。どこか進化の痕跡を残して、物事は進行するものだ。
  
 あれから、ずいぶんと長い時間が経過した。結婚から41年目。わが両親とかみさんの父親は、もうこの世にはいない。純白のドレスを自らの手で縫いあげたかみさんも、還暦を迎えている。わたしは、古希の手前で逡巡している。
 41回目の結婚記念日。高砂の家で同居している次男夫婦が、昨夜10時ごろに3階から1階のリビングに降りてきた。4人でお茶を飲みながら、結婚記念日の話題になった。その時点では、結婚記念日の夕食をとる場所が決まっていなかった。
 「どこにしようか、迷ってるんだけど」と子供たちにアドバイスを求めてみた。かみさんからは速攻で「とうふ屋うかい、どうです?」とリクエストが戻ってきた。最後にうかいで食事をしたのは、何年ぐらい前になるだろう。庭園を散策しながら、東京タワーを仰ぎ見て食事をした。すこし蒸し暑かったから、夏のころだったのだろうか。
 
 今日は院生指導のために、休日出勤で大学に来ている。市ヶ谷の研究室から、港区芝の「とうふ屋うかい」に電話で予約を入れてみた。うかいは、都内に三か所ある。芝公園のほかに、北八王子(とうふ屋うかい 大和田)と高尾(うかい鳥山)の2店舗。「うかい亭」の名前では、横浜など5店舗あるようだ。
 三連休の最終日。当日でも予約は取れそうだった。新型コロナウイルスの拡散で、休日の盛り場に繰り出したり、飲食店を利用するひとは多くはないだろう。上りの電車も空いていた。
 案の定、大広間だが二人の席が確保できた(*到着すると席は個室に変わっていた)。予約は夕方5時半からで、料理は「月のコース」をお願いしてある。16時すぎに自宅を出るつもりでいる。昨夜の時点では、ふたりで着物で出かけようとなっていた。当日になって、かみさんは乗り気でなくなったようだ。わたしの着物と雪駄が見つからなかったからしい。
  
 東京下町に移って、やりたかったことがある。それは、着物で過ごすことだった。
 そのために、わざわざ新居の一階には、小上がりの部屋をつくった。リビングの床より、小上がりの空間は約30センチほど高くなっている、クローゼット併設の6畳間は、空間としてはやや狭いが、渋い紫色の琉球畳が敷いてある。始めようと思えば、その場所で、かみさんは着物の着付け教室ができるようになっている。
 わたしのためには、三味線のお稽古ができる仕様になっている。いつになったら、着付け教室と三味線のお稽古場が開帳するかはわからない。粋な生き方を求めて、ふたりは下町に移り住んだのだったが、、、琉球畳の小上がりの部屋は、いまや孫たちのプレイルームと化している。
 まあ、しかし、いいとしよう。芝公園までのお出かけに着物と雪駄は、そのうちに実現できるだろう。本日、ここで粋を求めるのは、次の機会に繰り延べることしよう。