【柴又日誌】#191:73歳の誕生日で、思い出すこと。

 本日、73歳の誕生日を迎えた。10歳くらいのときだったと思う。亡くなった母親が、何気なくだったが、恐ろしいことをわたしに教えてくれた。いまでも忘れることができない。思い出す言葉は、「こうすけは、13歳で溺れて死んでしまう」だった。
 わたしがヘルニアの手術で入院したとき(6歳か7歳のときだろう)に、占い師が母親にそう告げたらしい。どこのどんな占い師で、母親がなんでそんな占い師のことで知っていたのかは、いまだに不明である。

 
 ワカさんは無神経なところがある人だった。小学校3年生の小さな子が、突然母親からそんなふうに言われたら、その後の人生がどうなるかを考えなかったのだろう。ごく軽い気持ちで、自分に言い聞かせるように言っただけなのかもしれない。
 
 その後は、ごらんの通りにわたしは生きのびて、こうして元気なままで現在に至っている。
 ただし、一つだけその後遺症らしきものが残っている。運動で苦手な種目はほとんどないのだが、唯一、水泳は苦手種目のひとつになってしまった。明らかに、「水」が怖いからである。潜りも得意ではない。というか、水の中にいると、溺れて死んでしまうかもしれないと、ずいぶんと大きくなるまで思いこんでいた。子供の頃の母親の声を思い出すからだった。
 大学生になっても、母親が夢の中に現われるときがあった。そのとき、ワカさんは鬼の形相をしていた。なんとも、ひどい後遺症をわたしに残してくれたものだ。小さな子供に対して、とりわけ死や病気を連想させる縁起のよろしくない言葉は慎むべきだろう。
 
 何気なく母親が教えてくれた「自分が水の事故で死ぬ」というご託宣は、その後のわたしの人生に影響を与え続けた。たぶんなのだが、「自分がいつ死ぬかわからない。だから、必死に生きなければいけない」と思い込むようになった。振り返って思うのだが、自分の生き様が切ないのだった。
 死と対峙している自分を知ることで、わたしは無類の読書壁を獲得して勉強好きになった。「中学1年生までしか生きられない」と言われたからだった。高校・大学と、その先も生き延びてはいたが、いつかその先がなくなるかもしれないと思いこんでいた。
 それだからだろう。自分がいまできることを、必死になって考えた。そして、一生懸命に生きてきた。それがいまである。たった一言、「自分は若くして死ぬ」というイメージが脅迫状のように自分を駆り立ててきた。

 人を動機づけるものが何なのか? 人によってそれはちがうだろう。わたしにとって、それは「若くして水に溺れてしまう」という占い師の予言だった。今にして思えば、何の根拠もないご託宣だった。占い師の素性も、母親の受け止めからも、知る由もない。 

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