【柴又日誌】#123:兄弟姉妹会議@秋葉原デニーズ、4年ぶりの再会 → 東雲羊羹(熊谷長栄堂)が廃業

 一昨日(6月19日)、妹の道子と弟の晋平と、兄弟3人が久しぶりで集まった。秋田の実家について、懸案事項となっている相談事があったからだ。3人の住まいの真ん中が秋葉原だった。道子さんの提案(おごり)で、秋葉原のデニーズでランチをした。おしゃべりは、延々と2時間半。わたしは夕方から仕事が入っていたので、ふたりのお酒にノンアルで付き合った。

 母親のワカさんが、2019年4月1日に火災事故で亡くなっている。3人が集まるのは、能代の葬儀場で会って以来のことだった。

 いまでも思い出すことがある。火事が起きたのは、エイプリルフールの日だった。朝早くに妹の道子から電話をもらった。「(秋田の)お母さん、火事でなくなったみたいよ」、、、

 最初は、エイプリルフールにかけた冗談ではないかと思った。しかし、真夜中の火災事故は実際に起こっていた。実家の失火(実母の死亡記事)が、全国紙(朝日新聞)に掲載されていた。事故は夜中の0時過ぎだった。

 商売を継いでいた三男坊の晋佐(しんすけ)が、実家を継ぐことになった。東京に出てきた兄弟3人(道子、晋平、わたし)は、秋田の家作(実家、貸家1軒、山林など)と商売の権利をすべての弟の晋佐に譲ることにした。財産はすべて、3男に無条件で渡した。その際、一緒に借金もすべてきれいにすることで合意した。

 兄弟仲が悪くなかったから、財産の処分で揉めることもなかった。各自が東京できちんとして生活できていたからだろう。葬儀を終えて別れてからも、その後にはじまったコロナの拡散以外は、とくに何事かが起こわけでもなかった。 

 

 ところが、予想はされていたことだが、独り身の3男坊は、お掃除が苦手だった。しばらくしてから、実家の様子を視察してきた次男の晋平から報告があった。実家が、「ごみ屋敷に近い状態になっているらしい」との報告だった。この辺のことは、わたしより次男の晋平君のほうがまじめだった。

 「商売をやっているので、すこしばかり体裁もよろしくない」と道子からも心配の声が出ていた。道子によれば、「帰省したくても、それだと実家に泊まれないわね。娘(恵実子)が秋田の家に行きたいと言ってるのだけどね」。要するに、片付けが苦手な弟のために、「お掃除サービス」を利用しようという姉さんからの提案だった。

 秋葉原の会合は、道子さんが計画した「お掃除サービス」(@秋田の掃除サービス会社)の支払い精算のためだった。最終的には、4人で等分の負担をして、実家をきれいにしておくことができた。兄弟仲がよくないと、なかなか難しいテーマだったのかもしれない。

 

 しばらくぶりで3人で集まってみると、それぞれの家でも大変な状態になっていることがわかった。だから、情報共有のためには良い集まりだっただろう。67歳から71歳まで、私たちの兄弟は、5年間で4人が生まれている。そして全員がここまで、とくに重篤な病気にもならずに、生き延びることができている。

 一方で、周りを見回してみると、70歳前後の兄弟4人なら、そのうちの1人や2人はなくなっていることがふつうだ。かみさんの3姉妹は、10年前に一人が欠けている。ここまで無事に生存できている小川家の兄弟4人は、むしろ例外的なケースである。しかも、まあまあの仲良しではある。それぞれの人生に対して、多少の不満はあるかもしれないが、まずまずの生活を送っている。

 「無事これ名馬」という表現がある。何も問題がないことが最高なのだと、このごろ思うようになってきた。これは普通の状態ではないのだろう。

 わたしも、人生が終わりかけているせいだろうか? 自分としては、まだまだやりたいことはあるのだが、同年代の教授=坂本龍一が最近になってなくなっている。わたしも、それほど先はないのかもしれない。

 

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 これで、ブログ記事を終えようと思ったところに、「朝日新聞」のオンラインで、次の記事が入ってきた。元院生の高瀬くんからのメールで知った。

 「東雲羊羹」(しののめようかん)は、子供のころから食べてきたソウルフードである。最後に食べたのが、神戸の息子の家で、2か月前のことである。息子はネットで購入したらしい。創業の事情は、生まれて初めて知ることになった。

 

 「ようかん一筋186年の老舗が閉店へ 閉店を知った客からは注文殺到」(朝日新聞、6月21日11時配信)

 ようかん一筋186年の老舗「熊谷長栄堂」(秋田県能代市)が6月末に閉店し、江戸時代から守り継がれてきた看板を下ろす。店主が高齢になり、後継者もいないことなどが原因。北前船が寄港したときに伝えられたという製法で作ったようかんは長く地元で愛され、閉店を知った常連客から注文が殺到している。

 創業は1837(天保8)年。店がある場所のかつての地名を冠した「東雲羊羹(しののめようかん)」だけを作り続けてきた。大阪方面から北海道に向かう北前船が能代に立ち寄った際、乗っていた京都の菓子職人から製法を教わったと伝えられている。  店は7代目の熊谷健さんが2014年に亡くなり、一時休止。翌15年、熊谷さんの弟で代表の鈴木博さん(88)が8代目として再開させ、2歳下の弟の保(まもる)さんと協力して切り盛りしてきた。  保さんは7代目からようかんの詳しい製法を受け継ぎ、工場責任者として店を支えた。だが、昨冬には保さんも亡くなった。ようかんを袋に詰める充塡(じゅうてん)機も故障しがちだったといい、鈴木さんは「自分も10人いる従業員も高齢。後継者もいない」と店を閉めることを決めた。