バブルがはじける前後のことだった(1990年)。愛知県名古屋市の桜通りに、トヨタ自動車グループの販売会社があった。社内では「自販」と呼ばれていた。販社の中核部門は、商品企画部と呼ばれていた。生産部門の組織名称は「自工」で、自販の商品企画部と密接に連携する組織(カウンターパート)は、自工内では製品企画部と呼ばれていた。
商品企画部と製品企画部の若手スタッフは、将来を嘱望されるエリート社員だった。いまでもこれは変わっていないと思う。
製品企画部の若手は、いずれは製品開発プロセスの中心で、新車を開発を主導する責任者(主査)の役割を担うことが期待されていた。わたしが関与していた、一方の商品企画部の若手社員も同様だった。トヨタの販社では花形のポストで、先輩たちは販売部門のトップに昇格していった。
東大の大学院(社会科学研究科)で、わたしを指導してくださったのは、大阪大学の大澤豊教授だった。大澤先生(講師)は経済学部の宮下藤太郎先生とともに、日本生産性本部のアカデミーを企画運営していた。アカデミーは、大手企業から派遣されてくる中堅社員が経営戦略やマーケティングを学ぶ「元祖ビジネススクール」だった。
わたしたち大学院生(他大学の大学院生を含む)は、マーケティングコースを運営している大澤先生や村田昭二先生(慶応大学)、田内幸一先生(一橋大学)から、先生たちのアシスタントをしながら実務面での指導を受けた。いまでいう「インターンシップ(研修)」のような実務教育制度である。
その後、慶応大学の池尾恭二さんや学習院大学の青木幸弘さんなど、同世代の若手マーケティング研究者と親交を深めることになる。きっかけは、生産性本部のアカデミーで、お互いに「助手研修」を受けたことである。切磋琢磨とはよく言ったもので、所属する大学を超えて、互いに学びながら競争していた。
同じ大澤門下生の片平秀貴さん(東京大学)や上條哲男さん(上智大学)、中島望さん(大阪大学)と共同研究をする交流の場も、アカデミーだった。指導してくれる先生にも、研究者仲間になる同僚にも恵まれていた。すべては、大澤先生を中心にしたマーケティングサークルの中心に据えてもらったおかげである。
大澤先生はアカデミーとは別に、長らくトヨタ自動車(自販)で「大澤ゼミ」を開いていた。トヨタ自販のマーケティング顧問として、商品企画部(名古屋)と調査部(東京)の面倒を見ていた。商品企画部の若手社員の勉強の場が、大澤ゼミだったのである。
大阪大学を退職する直前になって、大澤先生は体調を壊された。自販の大澤ゼミを、後進にゆだねるタイミングが来ていた。わたしもその後に同じ経験をしたので、当時の大澤先生の気持ちが痛いようにわかる。
ある日、大澤先生からわたしのところに電話があった。「片平君に東京(調査部)を頼んだ。申し訳ないが、小川君には(少し遠い場所になるけれど)名古屋の商品企画部の面倒を見てくれないだろうか?」。もちろん二つ返事で、依頼をお受けすることした。
それは、たいへんに名誉なことでもあった。なぜなら、対外的に大澤先生の後継者が、片平・小川というサインだったからである。
1990年代の前半から2000年にかけて、期間は7~8年くらいだった。若くして34歳で教授に昇進させられたわたしは、毎月一回、名古屋まで新幹線通勤をすることになった。桜通りの商品企画部の大澤ゼミが、小川ゼミに衣替えしたのである。その前後に、トヨタ自動車は、自販と自工が経営統合していた。
小川ゼミへは、片平さんが面倒を見ていた東京の調査部や、国内・国外営業部、中古車部門などからも参加者が増えてきた。小川ゼミは、全社的なマーケティング企画ゼミの様相を呈してきていた。商品企画部の小川ゼミ生を中心に、他部門の若手を交えて毎年、4つか5つのプロジェクトを走らせた。
商品企画部の中堅社員が「主査」(チーフ・アドバイザー)の役割を担い、横断的な部門組織から集めてきた(将来を嘱望されている)若手幹部候補生を指導することになった。わたしは、全体の進行をリードする役割を担っていた。半年ごとに、各グループがチームを組織して、将来有望になりそうな事業プロジェクトを企画していた。会社としては、未来プロジェクトの推進で若手を競わせることで、将来を託すことができる幹部候補生たちの評価と選抜をしていたのだろうと思う。
その後、若手の小川ゼミ生とアドバイザー(主査)の中から、海外事業の責任者や関連会社の取締役などが誕生している。また、当時は最も若かった社員が、いまでは本社の要職についている。アムラックス(@池袋)の企画やカーシェアリング実験(@お台場)、WiLLプロジェクト(@三軒茶屋)を中心的にプロジェクトを主導したのも、元小川ゼミ生たちである。
さて、彼らのうちの三人(西内、豊田、藤本)が、本日、神田小川町のオフィスを訪問してくれることになっている。3月に定年退職したわたしを、神田明神下の鰻屋さんで慰労してくれる。予約担当の西内さんは、わたしが無類の鰻好きとは知らなかったらしい。しかし、場所の選び方がすばらしい。
寿司ダイニングすすむさんのインタビュー(「かつしか文学賞」の原稿)が早く終わったら、神田明神の参道近くにある「Y&Sons」(創作着物の店)を覗いてみようと思っている。着物のやまとの元社長、矢嶋孝敏さんの店である。来週末に、歌舞伎を見に行くことになっている。その時に着ていく、観劇用の浴衣をあつらえてもらうためである。