宮崎駿のアニメ作品は、本書と同じタイトルが与えられている。読み方にもよるが、宮崎アニメは原作者(吉野源三郎氏)の作品や思想をなぞっているわけではない。別物である。本書の初版は、昭和12年(1937年)に刊行されている。いまとなっては確かめようもないが、子供のころのわが両親が本書を読んでいたかもしれない。アマゾンから本が届いたときに、ふとそう思ってしまった。
新装版は、マガジンハウス社から2017年に発売されている。それから約6年で、増刷を重ねて33刷りを記録している。わたしは、2023年8月2日刊行の第33刷で本書を読んだ。これは、2か月に一回の増し刷りのペースになる。ということは、現代風に漢字・仮名遣いを改定してからでも、8万人~10万人が新装版を読んだと推測できる(ロングセラーの増刷は3千部くらいだろう)。
本書を有名にしたのは、漫画化がなされたことである。表紙は、主人公(漫画の本田潤一君)の似顔絵である。実際は、活字が先で漫画が後である。そうなのだが、わたしの周囲では、そこそこの人たちが漫画版の方を先に読んでいる。
わたしのように、宮崎アニメ作品『きみたちはどう生きるか』を映画館で鑑賞して、気になって新装版の『君たちはどう生きるか』を読んだ人も多いだろう。タイトルは同じだが、2つの作品は全く別物に見えた。時代背景や人間(文明)の生き方(あり方)を問うという意味では、2つの作品は思想的にはつながっているところもあるが。
帯のコピーが、この作品を一言で表現している。「いじめ、勇気、差別、学問ーーー人間として大切なことを問い続ける永遠の内作」。本作品は、時空を超えてほぼ同じ読み方がなされるだろう。テーマが普遍的だからである。
本書は、人間にとって永遠のテーマである「生き方」を問う作品である。85年前の小説だが、日本は発刊の直後に太平洋戦争に突入する。米軍の激しい空襲により、小説の導入部で描かれている東京の町は、一面の焼け野原と化してしまう。日本は廃墟から再び立ち上がることにはなるが、戦後も本書は長く読み継がれてきた。
その理由は、著者の「人生を肯定的にとらえようとする態度」ではないかと思う。物語の登場人物に寄せる著者の眼差しが、すこぶる優しいのである。挫折や失敗を恐れずに、仲間(3人の友人)や大人たち(例えば、叔父さん)を信頼すること。生きるためにもっと大切なことは、友人や大人たちの行動から学ぶことだ、と。作者は若者たちに、やさしく押しつけがましくなく訴えようとしている。
主人公の本田潤一君は、自分が広い世界の「一分子」であることに、物語の冒頭で気がつく。百貨店の屋上から、雨の銀座通りを眺めるプロットで、社会との絆(相互依存関係)の中で人間が生かされていることを知る。このテーマは、のちの経済社会の成り立ち(ミルクの話)のところで再度登場してくる。
評者が一番好きな挿話は、本田君が3人の友人たちに手紙を書く話である。自分の弱さゆえに、潤一君は友人たちとの約束(上級生のいじめに仲間で体を張って立ち向かう)を破ってしまう。しかし、友人を裏切ったことについて悩み、後悔しながらもその事実(自分の弱さ)を受け入れて、最後は素直に謝る勇気を持つことができるようになる。
読み進む前に結論がわかってしまうのだが、そこから続いていく物語の展開が素晴らしい。わたしたちの心に残るメッセージは、「失敗や挫折を経験することは悪いことではない。むしろ、そうした辛い経験こそが人間を大きく成長させるのだ」である。それが、著者の吉野氏が読者にいちばんに伝えたかったことだろう。
若者向けに書かれた本である。わたしたち世代の人間にとって本書を読むことは、自分の遠い過去の経験を振り返ることでもある。わたしたちは、どこか本田潤一君の分身である。
わたしの周囲には、ドラえもんのジャイアン風の北見君がいた。家は貧しいが、心根の優しい浦川君もいた。実家が金持ちで何でも持っている水谷君風の子もいた。潤一君の叔父さんほどスマートで格好よくはなかったが、自分が舐めてきた人生の辛酸を、わたしたち兄弟や従弟たちを前に話してくれる伯父さんがいた。
そうした仲間や親類の叔父さん・伯母さんに教え諭されながら、子供たちは成長していく。本書で語られる偉人・賢者の例は、今の時代に読むと、やや古臭い感じもしないではない。フランス革命の英雄ナポレオン(生涯を完全には把握できていなかった)、物理学者のニュートンや地動説を唱えて迫害を受けたコペルニクスなど。
それでも、著名な本にも登場する偉人たちの生きざまと、潤一君の周囲にいた市井の人々の物語を織り交ぜて、著者は「わたしたちはどう生きるべきか」を問いかけてくる。ふだんは深く考えることがない質問である。しかし、この問いかけに対して、わたしたちは永遠に答え続けていかなければならない。
若者に対して用意された質問のようにも見えるが、年齢は関係がない。本日は、たまたま敬老の日(9月18日)である。70歳を過ぎたわたしのような老人にも、この質問は生きている。潤一君が百貨店の屋上から見た、銀座通りから遠くを煙らせている霧雨のように、わたしたちの心に静かに降りかかってくる。
さて、それでは、「君たちはどう生きるのか?」と。