本書を読みながら、陣内教授を法政大学の総長に担ごうとした昔のことを思い出した。2005~06年ごろのことである。随分と分別のない政治的な首謀者だったと、いまとなっては大反省である。近著の執筆ぶりから、大学を離れても著者が意欲的な研究生活を継続されていることが伝わってくる。わたしなどは、教職から引いたら自堕落な日々を送っていることだろう。
休みの日は、かなりの頻度で東京の下町を走っている。それも川べりや水場が多い。晴れた日には、江戸川の土手を水元公園まで往復で12KM。墨田川テラスを、川を下って6KM~12KMほど走ることもある。
先週の日曜日(12月6日)も、東京駅の南・八丁堀を起点に、隅田川沿いのテラスを佃島まで川下りを敢行した。タワーマンションの谷間に堕ちていく夕陽を鑑賞しながらの復路は、聖路加病院の前を通ってスタート地点まで戻った。
自分のインスタにアップしている写真を見ると、桜のころの小名木川、木場の貯木場跡地(木場公園)、一部埋め立てられた大横川、お台場(海浜公園)、月島、不忍池など、堀や池の周辺を走っていることがわかる。走路には必ずといっていいほど水辺が登場する。
その中でも頻繁に走っているのが、隅田川(第1章)や江東地区(第3章)の下町と、東京ベイエリア(第4章)の橋梁の際である。本書がテーマにしている、浅草近辺(第2章)から湾岸にかけての水辺と山の手の凸凹の大地(第6章)が、わたしがホームグラウンドにしている住処である。意識をしないままに走っている場所(トポス)の風景を、陣内さんの論考を読みながら反芻していた。
陣内さんによると、江戸時代の絵師(鍬形蕙斎)は、東京を東(現在のスカイツリーがある押上近辺)から、江戸城がある西に向いて描いていたらしい。江戸の外れに、利根川から分岐して東京湾に連なっている隅田川(江戸川)があった。浅草は物流の拠点で、そこから将軍が居住する江戸の中心部(屋敷町)を俯瞰するのが、江戸の鳥観図にふさわしいとされていた。いまでも、東京スカイツリーの最上階まで昇れば、江戸の絵師が描いたのと同じ浮世絵の世界に浸ることができる。
浮世絵の世界から、300年の時間が経過している。いま東京の市街地を撮影するとしたら、現代の写真家は南(湾岸)から北の方角(埼玉方面)を撮ることになるだろう。水辺の中心が隅田川沿いの浅草地区から、再開発が著しい湾岸のお台場・豊洲方面に移動したのだと推測できる。
ところで、わたしは約50年前に秋田から上京して、最初は杉並区(第7章)に住んだ。2年後に文京区(第6章、山の手)に下宿が変わり、いまは葛飾区(第1章)に住んでいる。職場は、市ヶ谷(第5章)で外濠に臨む校舎で教鞭をとり、江戸川の土手や隅田川(第1章)のテラスを走っている。
自身の住まいの変遷を古地図にプロットしていくと、江戸・東京の歴史的な時間を逆に歩んできたことになる。
本書の大きなテーマは2つである。
ひとつは、江戸から東京へ移り変わる歴史的な変遷を、土地の記憶を保持したまま継続した時間の流れで見るという視点である。とりわけ東京という場所に関していえば、その中心には必ずや水辺(川、海、沼、堀、湧水)があるという考え方である。それは、東京が水の都たるゆえんでもある。
政治権力が徳川幕府から明治維新で新政府に変わったとき、歴史教科書では経済も文化もすべてが首都・東京の誕生で断絶したと解釈する。例えば、東京は江戸時代の古い木造建造物を壊して、西洋風のモダンな石の建物を土地の上に積み上げてきたとされている。ところが、江戸と東京は空間的にも時代的にも、決して断続はしていないと著者は考える。
実際には、そうした破壊と断絶の側面も強いのだが、陣内さんの主張はそれとはちょっとちがっている。文明開化後の東京市は、江戸の文化に洋風文化が「上書きされた世界」だと考えるのである。水辺への着目や土地の記憶は、そのときの媒介物であり思考の中心軸になる。
つまりは、江戸から東京に時代は移っても、隅田川や日本橋川は変わらずに流れていた。商人も町民も、彼らの身分や地位に関係なく、人々は掘割や運河を渡り、丘の起伏や坂道を登っていった。東京と江戸は連続した時間軸の上に存在しており、連続性は区間的な土地の属性(水辺と丘陵の記憶)で結ばれている。
江戸も東京も、基本は水辺にできた都市である。水とともに生活文化が成り立っている。なので、都市計画のプランナーや近代建築家の視点からは、道路や建物のベース(基層)は、江戸が東京になったからといって、それほど大きく変わってはいない。わたしなどは下町を街ランをしていると、道路傍や水辺に江戸が突如現れることがある。
たとえば、隅田川テラスに芭蕉の句を見つけたときなどは、そのまま自分が奥の細道に旅立つ芭蕉になってしまいそうになる。また、両国の江戸東京博物館で広重や北斎の浮世絵を見ていると、大橋のたもとで生活していた絵師たちの日常が鮮やかに蘇ってくる。まさに土地の記憶が時間を超えて、わたしたちの眼前に現れるのである。
二番目のテーマは、35年前に著者が著した『東京の空間人類学』(筑摩書房、1985年)の拡張である。前著を読んではいないが、著者の解説によれば、前著は「低地の下町」を中心に組み立てられた論考であった。拡張の視座は、東京の西地区を論考に包含したことと、湧水と丘の起伏に着目したことである。「はじめに」に書かれている、著者の具体的な説明を見てみよう。
「後半の第5~9章は、従来の「水の都市」東京の発想お大きく乗り越えるための新たな試みからなる。いわゆる東京の低地である都心・下町のみを「水の都」とする見方に縛られず、山の手・武蔵野・多摩へも思考の対象を広げ、東京と水の密接な関係を多角的に見ていく。新たな「水都東京」論へのチャレンジといえる」(P.14)
利根川は、信濃川に続いて日本で二番目に長い河川である。江戸時代の河川改修工事で、江戸川経由で東京湾に注いでいた水量を減じたことが知られている。治水のためである。流域面積は日本一で、豊富な水を関東平野に供給している。江戸の武士や町民も、舟運の発達や生活用水の供給で大きな恩恵を受けている。
著者は、川沿いに発達した欧州の代表的なふたつの都市、ロンドン(テムズ川)とパリ(セーヌ川)を、水都東京(隅田川)と比較している。結論をいえば、世界中を見渡しても、これほど浄い水と起伏のある丘に恵まれた都市は存在しない。そして、東京西地区(山の手、武蔵野)まで含めると、人が住まう居住地だけとしてではなく、遊興の場所(水辺)や信仰の森(神社仏閣)を提供してくれている。それは、東京の地理的に特性によるものである。
流域面積の広い川の河口に広がる湿地帯が、東京下町と埋め立て地の湾岸エリアである。そして、起伏のある丘の高台や麓に湧き出る水の恩恵を受けたのが山の手と郊外(杉並や日野の武蔵野台地)である。いまもその基層は変わっていないが、たとえばタワーマンションだけの殺風景な湾岸などの都市開発はいかがなものかと著者は嘆く。
水辺をもっと活かした都市開発が、いまの東京には必要なのでないのか。湾岸を走るランナーのひとりでもある評者は、陣内さんの懸念に同意する。江戸から綿々と続く水都・東京には、もっと自然で豊かな風景が似合っている。人工一辺倒の都市設計はいかがなものだろうか。
2020年のオリンピック・パラリンピックが実現するかどうかは不確定ではあるが、東京オリパラから横浜花博に連なる博覧会は、関東平野の湾岸に古くて新しい風景を出現させる絶好の機会ではあったはずだ。しかし、著者の水都・東京への憧憬から、現実はやや遠のいているように感じる。
わたしが2年前に、千葉県から東京葛飾区に移り住んだのも、そうした東京下町への愛着からだった。本書がきっかけで、東京都の都市デザインが大きく変わることを期待したい。また、わたし自身の使命としては、東京下町の商店や商人を描いた著作物を発表したいと思っている。
陣内作品へのオマージュとして、教員生活から引退する2年後に、「商人版・東京下町物語」を執筆することである。東京の重心は、ふたたび西から東に移動している。東京の低地(江東、墨田、葛飾)には、思いもかけない商売が残っている。陣内教授は、その中から、著書の中では清澄白河(ブルーボトルコーヒー)と蔵前(クラフトショップ)を紹介していた。
しかし、下町を走っていると、幹線道路から少し外れた道端や露地裏に、それ以外にも面白い商売に出くわすことがある。古くからの商売もあるが、若者が切り開いている新しいビジネスの萌芽を感じることができる。その両方を描くことが、将来のわたしのミッションだと思っている。